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三秒待てば 18

「ええっ、管理人さん飲めないの?」
 流星が持ってきた袋の一つから取り出したのは、渋谷が頼んだらしい赤ワイン――によく似た、『ノンアルコール』ワインだった。流星はそれを差しだすようにして、「これだったら飲めますか?」と千景に訊いた。そこにすかさず口を挟んだのは渋谷だ。
「どうなの? そうなの? じゃなきゃ買ってこないよね、流星君ワイン飲まないし、寒矢さんはノンアルコール興味ないし」
 渋谷は流星の手元を指さしながら、千景と流星の顔を交互に見る。
「あ、えっと、前にお酒の話をしたとき、自分は飲まないって言ってたので……それで」
 流星が取り繕うように答えると、渋谷はますます目を丸くした。
 渋谷の視線が再び千景へと戻る。その顔には「本当に?」と書いてある。
 つられるように流星も千景に目を向けた。その眼差しは「見当違いでしたか……?」と窺うようだった。
(そういえばそんな話をしたこともあったっけ……)
 千景は小さく息を吐いた。
 正直、言った本人も忘れてしまうような他愛ない会話の一部だった。それをよく覚えていたなと、少しだけ複雑な気分になる。
「まぁ、はい。飲めないというか、飲まないようにしてるだけですけど」
 千景は視線を落とし、仕方なく首を縦に振った。
「え、飲まないってなんで?」
「ああ、そりゃそうか」
 すると僅かに腰を浮かせた渋谷の横で、面白がるように早乙女が苦笑した。とっさに一瞥したものの、時すでに遅く、
「どういう意味?」
 すぐさま問い返した渋谷に、堪えきれず深いため息が出る。
「どういう意味って――」
「別に大した話じゃありませんよ」
 早乙女の言葉を遮り、千景は吐き捨てるように言った。
 これ以上早乙女に下手なことを言われるくらいなら、自分で白状した方がましな気がする。
 思い至った千景は、敢えて笑顔を作り、
「酒癖が悪いからですよ」
 三人が固まったのを見て、更ににっこり微笑んだ。
「そんなわけで俺は飲みませんけど、そちらは気にせず飲んでくれて構いませんから」


 早乙女はとりあえずビール派で、渋谷は赤ワイン好き、そして流星は炭酸を好んで飲むらしい。
 見ているだけでそれは分かり、仲がいいわりに好みは見事にバラバラなんだなと、どうでもいい感想が頭をよぎる。その点千景は酒なら何でもいける口だが、いまそれを知るのは早乙女だけだった。
「そういえば管理人さん料理得意なんだよね? このマカロニ? もすごい美味しいし」
 言うだけあって、渋谷は千景の作ったそれをよく食べていた。あり合わせで作ったサラダの方も気がつけば残り僅かとなっており、
「今度僕にも何か作ってよ」
「……まぁ、機会があれば」
「やったね。絶対だよ。楽しみにしてるから」
 そんな風に言われると存外悪い気はしなかった。
 機嫌を良くした渋谷は、「うん、それなら飲まないのも我慢してあげよう」と、空いた千景のグラスにノンアルコールワインを注ぎ、それとよく似た普通のワインを自分のグラスに注ぎ足した。
「そういえば、ちょっと気になってたんですけど……」
 ふと、隣席の流星が、新たなチューハイの缶を開けながら思い出したように口を開く。
 千景が目を向けると、流星はまっすぐ千景を見返して、
「あの、管理人さんのお姉さん、どこか悪いんですか?」
「え?」
 どこか意を決したみたいに言った後、突然はっとしたような顔をした。
「っあ、すみません! 実は俺、雨漏り修理に来た人と管理人さんの会話、ちょっと聞こえちゃって……それがずっと気になってて」
 慌てて居住まいを正し、経緯を説明する流星に、またしても先に反応したのは向かいの渋谷だ。
「ああ、その話! さっき途中で終わってたんだよね。そっかぁ、それで管理人変更かぁ」
「なるほど……」
 人差し指を立て、身を乗り出しながら言う渋谷に、窓際で煙草を吸っていた早乙女も勝手に納得した顔をする。
「ってことは、やっぱり……」
 その様子を見ていた流星が、ぽつりと呟いた。
(そういやあの時、こいつの部屋のドア、開けっ放しになってたっけ……)
 千景は一瞬絶句して、それから目を伏せ、目眩がするようにこめかみを押さえた。
「やっぱりじゃないです……別に姉はどこも悪くしてませんから」
「え、だってあの時順調そうって……病状の回復が、って意味じゃなかったんですか?」
「順調?」
「はい、順調そうで何よりって、聞こえた気がしたんですけど」
「だから、それは……」
「え、ていうか、それってもしかして」
「病気っていうより――」
「え、え? 病気じゃないんですか?」
 疲弊したように言う千景に対し、畳み掛けるように続く三人の調子はいつもと変わらない。
その温度差が余計に千景をげんなりさせて、結果、
「ああもうっ……そうですよ! 妊娠したんですよ、妊娠! それで管理人交代! 別に隠してたわけじゃありませんから!」
 次の瞬間、千景はもはや何もかもどうでも良くなったかのように、そう言い放っていた。
 大きな声で言えることではないと思っていたことを、それこそ声を大にして。



continue...
2012.11.30