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三秒待てば 19

 流星が買ってきたノンアルコールワインは、思いの外美味しかった。芳醇な香りとこくは本当にノンアルコールかと思えるほどで、そのせいか本当に酒を飲んでいるような気分にもなった。味見と称して渋谷が少し飲んだ以外、誰も欲しがらなかったのをいいことに、残りは全て千景一人で飲み干してしまったくらいだ。今まではそう口にしてこなかったが、この味で酔わずに済むのなら、ノンアルコール飲料も悪くないかもしれない。
「……カゲ、千景。寝るなら布団敷いて寝ろよ」
 そう考えていたばかりなのに、気がつくとそこには早乙女の姿しかなく、千景は目にかかる前髪をかきあげるようにしながら、天板に伏せていた顔を上げた。
「え……、なに……」
 置かれている状況がすぐには理解できない。酒を飲んだわけでもないのに、それまでの経緯にまるで覚えがなかった。
 ただ、いつの間にか眠ってしまっていたらしいということだけは疑う余地もなく、
「……マジかよ」
 千景は無意識に呟きながら、信じがたいように首を振った。
 徹夜明けでなければ、体調が悪かったわけでもない。それなのに――それなのに? 出会って間もないとも言える相手を前に、記憶もないほど自分が熟睡?
(酒も飲んでねぇのに?)
 考えれば考えるほど腑に落ちなくて、改めて室内を一望する。しかし、現実はやはり現実でしかなく、机の上は既に一通りの片付けが終わり、残っていた早乙女も煙草の入った袋を手に席をたつところだった。
「環は部屋帰ったし、流星は風呂行ってる。俺も風呂入ったらもう寝るから、お前も――」
「いつ……?」
 呟くが早いか、千景は立ち上がったばかりの早乙女を仰ぎ見る。
「は? いつって?」
「だからいつだよ。いつから俺寝てた? そもそも何で寝てたんだよ? 酒も飲んでねぇのに」
 霞がかっていた意識がはっきりしてくると、捲し立てるように早口になった。ともすれば自問するようなその言いように、早乙女は一瞬面食らったような顔をして、それから苦笑気味に笑った。
「それだけ疲れてたってことじゃないの」
「そ……」
 そう言われると、そうかもしれないとも思う。慣れない環境に身を置いて数日、自覚がないだけで思いの外ストレスが溜まっていたのかもしれない。とは言え、本当にそれだけだろうか。
「まぁ、何で寝てたかはともかく、寝たのは十一時頃だったよ」
「十一時……」
 千景は咄嗟に時計を探す。ポケットの携帯を思い出すより先に、早乙女が「もうすぐ十二時」と補足した。
 ということは、眠っていたのは一時間足らずということだ。
 千景は僅かに目を瞠り、暫し沈黙した。
「え、何、もしかしてまた記憶ないとか?」
 図星だった。どんなに少なく見積もっても、二時間ほどの記憶がなかった。思い出そうにも思い出せない。眠ってしまうまでの一時間、交わした会話の断片すら出てこなかった。
「案外懲りないねぇ」
 千景は再び言葉に詰まる。前科を知る早乙女に、そんなわけないとも言えない。
 かと言って、これ以上詳細を問い詰めるのも弱みを握られるようで気が乗らず、結果、千景は小さく舌打ちし、悔し紛れに短く言った。
「……もなかったよな」
「え?」
「何もなかったよなって訊いてんだよ」
「何もって?」
 早乙女は白々しく問い返し、ややして含むような笑みを浮かべた。
「ていうか、しっかり思い出せば思い出せないこともないんじゃないの。俺とのことだって、結局思い出せたじゃない、お前」
 のらりくらりと言いながらも、しっかり痛いところを突いてくる。少しでも千景の視線が揺れると、それだけで楽しいように目を細められた。
「まぁとりあえず、今夜はここに泊めてやるとは言ってたな。流星に。雨漏りの修理が途中だからって」
「それから?」
 いたたまれず、急かすように先を促す。しかし、早乙女が教えてくれたのはそこまでで、
「後は自分で考えな。どうしても知りたくなったら、どうか教えてくださいって聞きにおいで、千景」
 次には一方的にそう残し、あっさり踵を返されてしまった。
「なっ……」
 思わず腰を浮かせた千景を余所に、早乙女は振り返ることもなくドアへと向かう。その背を忌忌しげに見据え、千景は当てつけるように呟いた。
「誰が行くかよ。つか、何が『千景』だ」
 それを聞き留めたのか否か、早乙女は素知らぬ顔でドアを開けた。
「お、流星」
「あ、はい……風呂、出ました」
 直後、その向こうから聞こえてきたのは流星の声だ。
 流星は早乙女と簡単な言葉を交わすと、入れ替わるように部屋に入ってきた。そのまま早乙女は部屋を去り、流星が後ろ手にドアを閉める。
(えっ……。――ああ、そうか。泊めてやるって話になってんだっけ……)
 早乙女に向けていた視線が、流星へと移る。目が合うと、流星はいつものように笑顔を見せた。
「あ、あの、布団……持ってきた方がいいですよね」
 しかし、その様子にはどこか違和感があった。態度も表情も口調も妙にぎこちない――そんな印象に、なんだか嫌な予感がした。
「……いや、布団はいい、ですよ」
「え、でも」
「いいんですよ。わざわざ運んでくるのも面倒でしょうし」
 目を逸らし、平然と答える一方で、少しでも思い当たることはないかと記憶を探る。
 かと言って、出てくるのは隣に座っていたのが流星だったことくらいで、そして話といえば千歳の妊娠、そこから祖父の話を少ししたことくらいで、それらしいことはなかなか出てこなかった。
「でも、俺……」
 束の間考え込んでいると、流星の躊躇うような声がした。
 見れば流星はドアの前で立ち尽くし、俯きがちに目を泳がせて、心なしかその頬を淡く染めている。
「……ちゃんと二組ありますから」
「え?」
「布団。ここに二組ありますから。それを貸しますよ」
 口元が引きつるのを感じながら、棒読みに近い口調で告げた。事務的に指さした押入れには、千歳が勝手に手配していた来客用の布団が入っている。
「あっ! そ、そうですよねっ。すみません、なんか俺……そんなはずないって思ってたのに」
 流星は弾かれたように姿勢を正すと、気恥ずかしげに頭を下げた。その顔は頬だけでなく、耳まで赤くなっていた。



continue...
2019.04.10