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三秒待てば 14

 数時間後、作業を切り上げた二人が二階から降りてきた。ちょうど浴室の掃除と準備を済ませたところだった千景は、玄関脇のロビーで詳しい説明を聞いた。
「ごめんねぇ、どうしても今日だけじゃ終わらなくて」
「本当、力不足で申し訳ない」
 二人は簡単な工程表を差し出しながら、すまなそうに頭を下げた。
「……いえ、無理を言ったのは俺の方なんで」
 千景は緩く首を振った。元々下見がメインだったのを、できれば今日中にと頼んだのは千景だった。
 顔見知りと言うこともあり、二人は千景の希望に添えるようにとぎりぎりまで尽力してくれた。しかし、そうして限界まで工程を進めさせてしまったことを、千景は今になって後悔していた。
(余計なこと言わなきゃ良かった)
 受け取った書類には、明日の予定が書かれていた。――が、この際それはどちらでもいい。それより何より問題なのは、
「作業が中途半端だから……悪いけどあの部屋はそのまま置いといてね」
「はい、わかっています」
 詰まるところ、今夜一晩、流星の部屋が使えなくなったということだった。
(またかよ……)
 千景は心の中で呟いた。そして、またしてもこの事態を招いてしまったのが自分だということに心底辟易した。
「部屋を借りてる人にも、直接説明しておいた方がいいかな」
 日をまたいでしまう分、作業は迅速に再開するし、極力待たせないようにすると、そう言ってくれたのは有り難かったが、
「大丈夫です。今ちょっと外出中ですし、後はこちらで話しますから」
 返す言葉とは裏腹に、気を抜くと溜息ばかりが出そうになる。
「明日は午前中に来られるから。休日だけど、九時からで大丈夫だったよね」
「はい。よろしくお願いします」
 それでもどうにか平静を装い、頭を下げた。
「予報では明日も晴れるって言ってたし……」
「うん。絶対、明日中には終わらせるからね」
 応えるように頷いた二人は、静かに腰を上げた。それから間もなく、アパートを後にする。
 その背を玄関ポートで見送ってから、千景は気が抜けたように深い息をついた。
「なんでこうなるんだよ……」
 一人になると、思わず本音がこぼれ出た。後ろ手にドアを閉め、気怠げに靴を脱ぐ。
 傍らの下駄箱はがら空きで、いまは流星の靴もなかった。早乙女や渋谷は未だ仕事から帰っておらず、一時間ほど前、宅配便を出してくると言って出かけた流星も不在のままだった。
「いっそどっかで外泊してこいよ」
 下段の端に靴を入れながら、投げ遣りに独りごちる。廊下に上がり、自棄になったように前髪を掻き混ぜると、もはや何度目か分からない溜息を更に重ねた。
「ただいまー」
 直後、背後でドアが開いた。
 反射的に流星だと思った千景は、一瞬ぴくりと目を眇めた。
「あれ、管理人さん。どうかしたの?」
 声の主は渋谷だった。
 千景は姿勢を正し、振り向いた。
「別にどうもしません」
 勘違いだと気付いた瞬間、内心少し動揺したが、努めて平然と言葉を継ぐ。
「雨漏りの修理業者が来ていたので、その対応をしていただけです」
「あ、そうなんだ」
「はい。結局今日中には直りませんでしたけど」
 手の中の書類を一瞥し、再び渋谷の顔を見る。
「それでご迷惑をおかけしますが、明日も九時から作業を再開するとのことなので……」
「あ、うん。別に僕は構わないよ」
 渋谷は軽い調子で答えると、襟元をくつろげながら廊下に上がった。
「早く直してくれた方が、こっちも安心だし。実際雨漏りしてるのは流星くんの部屋だけだけど、いつこっちまで漏れてくるかって考えたら……」
「一応、その辺の確認もちゃんとしてくれるみたいです」
「そう。それなら良かった」
 ほっとしたような表情を見せ、渋谷は二階へと向かって歩き出した。それをしばし目で追って、千景も自室へと足を向ける。やがて背後から階段の軋む音が聞こえてくる。その音が数回続いた後のことだった。
「あ、そうだ、管理人さん」
 不意に一際高い声で呼び止められて、千景は足を止めた。
 瞬いて後ろを見ると、渋谷が数段、階段を下りてきて、
「今夜、歓迎会しようよ。管理人さんの部屋で」
 悪戯めいた仕草で顔を覗かせ、にっこりと笑った。
「は……?」
「時間は一時間後――七時からくらいでいいかな」
「……あの」
「流星くんや寒矢さんには僕から言っとくから。――じゃあ、また後で!」
 呆気にとられる千景を余所に、渋谷は言うだけ行って、すぐに姿を消した。足早に階段を昇る音に続いて、扉の開閉音が小さく響く。
 千景は思わず立ち尽くし、半ば無意識に呟いた。
「歓迎会……? 俺の部屋で?」



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2012.08.23