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三秒待てば 12

(ていうか、こいつの仕事って何だっけ……)
 すっかり冷めてしまったコーヒーをシンクに下ろし、改めて二杯目のコーヒーを入れようと、再びドリップポットを火にかける。その傍ら、千景はいつのまにかパソコンに集中し、ここ一時間ほどは伸びの一つもしなくなった流星の背中を肩越しに見遣った。
 遠目に見えるパソコンの画面には、小さな画像と箇条書きのような文章がたくさん並んでいる。しかし、元々その方面に疎い千景にそれ以上のことは分からない。
(あ、そういや名簿に……)
 そこでふと、昨日見た住民名簿のことを思い出した。名簿には職業欄があり、201の渋谷は小学校教師、202の早乙女は会社員と書いてあった。そして203の夏海は――。
(……あれ?)
 203の夏海は?
 千景は思わず眉を寄せる。何度思い出そうとしても、流星の分だけ出てこない。
 会社員、自営業、フリーター。祖父から全員社会人だと聞いたのは確かなのに、何をあげてもピンと来なかった。
(たった三人の職業も覚えてねぇとか……)
 心の中で呟くと、自分で自分に少し呆れる。
 千景はぞんざいに髪を掻き上げると、仕方なく足音を忍ばせるようにして続き和室の寝室に向かった。流星の職業が気になるというより、一度目を通したのに分からないと言う羽目になりたくなくて、書類を確認することにしたのだ。
(あった)
 極力音を立てないよう、慎重に紙束の中から住民名簿を探し出す。そっと抜き出して見てみると、
「学生?」
 そこに書かれていたのは、予想外の答えだった。
「話が違うじゃねぇか……」
 無意識にこぼした呟きが、あからさまに不服そうな声になる。
 通りでピンとこないはずだ。この仕事を受けるにあたり、「何かにつけ集まって騒ぐような学生もいないから安心しなさい」と千歳もはっきり言っていたのに、まさかそれが嘘だったなんて――。
 千景は紙面を見詰めたまま、頭痛がするように額を押さえた。
「あれ、俺の職業、学生になってる」
「!」
 瞬間、千景の身がぎくりと強張る。気がつくと流星が、千景の肩口付近から覗き込むようにして手元を見ていた。
 驚いて瞠目する千景の手から、書類の一部が抜け落ちる。それを流星は当たり前のように拾い上げ、
「俺、もう学生じゃないですよ。一応伝えたはずなんですけど」
 屈めていた背筋を伸ばし、拾った書類の向きを揃えながら、何食わぬ顔で言った。
 一体いつからそこにいたのか、まったく気付かなかった。
 半ば放心状態の千景は、「はい」と書類を差し出されたことでようやく我に返る。
「どちらにしても、盗み見や盗み聞きは感心しませんね」
 ごまかすように咳払いを一つして、書類を封筒に片付ける。続いてそれを本棚に戻すと、努めて素気ない声で言った。それからすぐに踵を返す。途中、思い出したように「職業の訂正はしておきます」と事務的に付け足して、あとは隣室に戻るため、流星の脇を擦り抜けた。
「あっ、違うんです。あの、お湯が沸いてたんで、火、止めましたって……それを伝えようとしたら、たまたま……っ」
 たちまち、あわてふためいたように首を振り、流星がその背を追いかけてくる。
 千景は足を止め、突然くるりと振り向いた。制するように手のひらを見せれば、急ブレーキをかけたように流星の動きが止まる。
「たまたま何ですか。たまたま見えそうだったから見たんですか。――火を止めてくれたことには感謝します。けど、もういいですから。後は大人しく座ってて下さい。仕事、溜まってるって言ったのは嘘じゃないんでしょう」
「う、嘘じゃないです!」
「それなら、どうぞ仕事に集中して下さい」
 畳みかけるように言って再び背を向けると、「だからもうついてくるな」と言わんばかりの足取りでキッチンへと歩いて行く。しかし流星はなおも引き下がらずに、それどころかいっそう追いすがるように距離を詰めてくる。
「待って下さい、話はまだあって……」 
 千景はそれを無視してコーヒーの準備に取りかかった。
「あの、わざわざコーヒー……すみませんでした。俺、淹れてくれてるの気付かなくて。今更ですけど、美味しかったです」
 なのにその言葉がまたしても千景の動きを止める。
 ちらりと横目にシンクを見る。そこに置かれているカップは二つ。一方は最初から空で、一方は中身が入ったままだったそれが、両方空になっていた。
 確かに、千景が食後に用意したコーヒーは二人分だった。だけど流星はそれにも気付かないほど没頭していて、だからあえて声をかけることもなく淹れ直しておくつもりだったのだ。――できれば、その経緯を知られないうちに。
(こんなことなら、とっとと中身を捨てとくんだった)
 千景は忌々しげに舌打ちし、当て付けるようにため息をついた。
「ただ自分のだけを淹れるのもどうかと思っただけです。ついでですよ、ついで」
 いたたまれず、他人事のような口調で話題を変える。
「だいたい、シンクに下ろしてあるものを飲みますか、普通?」
「だって、別に汚そうには見えなかったし、もったいないですから」
「もったいないって」
「もったいないですよ。せっかく管理人さんが俺のために淹れてくれたのに」
「だから別にあなたのためってわけじゃ……ついでだって何度言えば」
 千景はうんざりしたように流星を見た。それでも流星は諦めなかった。
 流星は真摯な眼差しで身を乗り出すと、あろうことかそのまま千景の手を取った。
「本当に嬉しかったんです、俺」
 千景の口端が僅かに引きつる。だがその一方で、優しく握られた手の先から、温かな体温が伝わってきた。
「い……いちいち大げさなんですよ」
 それは思いの外心地よく、はっとした千景はその手を振り払った。
 千景はずれかけたカーディガンの肩口を引き上げながら、逃げるように背を向けた。
(なに考えてんだよ)
 流星も、そして自分自身も。
 何だか少し混乱し、答えも出ないまま急に気恥ずかしさばかりが増してきた。
「とにかく、その話はもういいですから」
 千景はますます突き放すように言って、ドリップポットに手をかけた。その後はもう何を言われても振り返らなかった。



continue...
2012.06.15