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三秒待てば 10

 切れかけた玄関灯の交換に、敷地の半分を占める庭の草むしり。雨漏りの処置に加え、脱衣所の鍵の交換。まだ一日目だと言うのに、やるべきイレギュラーな業務は思いの外多くて、千景は早くも逃げ出したい気分になっていた。
 かと言ってそう簡単に逃げ出せないのも解っているので、
「まぁ、とりあえずは雨漏り……だよな」
 千景は重い足取りながらも二階に向かう。
 一応、部屋を出る前に祖父から受け取っていた資料にもざっと目は通してみた。しかし、当然と言うべきか雨漏りに関する記載は見つからなかった。家電の搬入と共に整っているはずのネット環境も、肝心のパソコンの購入がこれからでは役に立たない。手持ちの携帯は古く、調べものをするには向いていなかった。
(なんか胃が痛い……)
 そんな状態で、自分に何ができるというのだろう。
 思えばますます憂鬱になったが、千景は辛うじて止まることなく軋む階段を昇っていった。
 二階の廊下に出ると、一室のドアが開いているのが見えた。開け放たれているドアの上部に、『203』と書かれたプレートが貼り付けられている。
「あ、こっちです、管理人さん」
 足音に気付いたのか、ドアの影から流星が顔を覗かせた。千景は小さく息をつき、招かれるまま、覚悟を決めたように室内を覗き込んだ。
 ――きん、こん、かん。
 間もなく、音程の違う妙な音が部屋のあちこちから聞こえてきた。千景は怪訝に眉をひそめた。口を大きく切り抜かれたビールの缶が、水滴が受け止めている音だった。それ以外にも、部屋の隅に置かれたPCデスク脇にはプラスチック製のバケツまで置いてある。その中には2センチほどの水が溜まっていた。
(雨漏りって……一度にこんなに?)
「雨がさっきよりましになったからか、落ちてくる量は減ったみたいなんですけど」
 言われても、千景は何も答えられなかった。その予想を超える状況に、頭が真っ白になっていたからだ。
「管理人さん?」
 目の前で手を振られ、ようやく我に返る。顔を覗き込む流星の近さに、千景は咳払いを一つして、
「これ、半年前からって言ってましたけど、今までどうやってしのいでたんですか」
「あ、まぁこんな感じで、雨が止むのを待って……拭いて、って感じですかね。ただ、それをするにはここ数日で漏れてくる位置も量も増えちゃって、溜まった水を捨てるのもあれなんですけど、もしそのせいでPCが壊れたらって考えると寝るに寝られなくなっちゃって……」
「……そうですか」
 どこか申し訳なさそうに説明する流星と共に、改めて詳細を確認しようと部屋に入った。
 天井を一望し、ポケットから携帯を取り出す。写り込まないようストラップを握り込み、水がしみ出ている場所をそのカメラで撮影する。自分にできることなどたかが知れていると自覚しながら、そんな自分でもできることはないかと頭の中で模索していた。
 しかしその甲斐もなく、たどり着いたのは誰かに相談することだった。相応の知識がないなら、知識がある人間に頼るしかない。最初から自分の手に負えないと認めるのは悔しいが、下手に手を出して事態を悪化させるよりはましだろう。
 千景はだいたいの状況の把握すると、一旦部屋に戻り、まずオーナーである祖父に電話をかけてみることにした。
「もしもし、俺、千景だけど」
 使用人もよく知る身内と言うこともあり、昨日と同じく電話はすぐに取り次いでもらえた。間もなく電話口に出た祖父に、千景はろくな前振りもしないまま急き立てるように言った。
「あっ、なぁ、雨漏りの修理とかっていつもどこに頼むとかある? あるなら連絡とりてぇんだけど。それもできるだけ早く」
 そんな千景の剣幕に、祖父は一瞬沈黙する。しかしすぐに話は読めたらしく、
『雨漏りか。それならとりあえず応急処置だな』
「応急処置?」
『そっちもまだ雨だろう? 風も止んでいないなら、なおさら中からの処置しかできんだろうから』
 瞬いて眉を顰めるばかりの千景に、言い聞かせるように説明を始めた。


「あ、お帰りなさい管理人さん」
 電話を済ませた千景は、五分後には再び流星の部屋の前にいた。
「とりあえずこれで応急処置をしてみます。この天気では業者もすぐには来られないそうなんで」
 流星の笑顔には特に応えず、再度天井を見渡しながら、「これ」と言って千景が示したのはアルミテープだった。丁度バケツの水を捨てたところだった流星は、空になったそれを元の位置に戻し、居住まいを正すようにして「はい」とうなずく。
 祖父の話によると、どのみち業者はすぐには来られないから、まずは自分のできる範囲で応急処置を、ということだった。そこで教わったのがコーキング剤や防水テープで内側からせき止めるという方法なのだが、実際にはその道具もないので、代わりに何か使えるものがないかと荷物の中から探し出してきたのがアルミテープだった。荷造りをした千歳が消耗品の一つとして入れてくれていたらしい。そう言えば「シンクも相応に古いらしいから」と言っていた気もする。
 実際これが代用品になるかはやってみなければ分からないが、少なくともセロテープやガムテープよりはましだろう。
 千景は試しに一番被害の少なそうな場所の下に立ち、テープの端を引き出した。
「あっ……」
 しかし、そうして頭上を仰いだところで、思わずその動きを止める。そのままでは手が届かないと、今になって気づいたのだ。いくら天井が低い建物とはいえ、千景の身長で手が触れるほど低いわけではない。それはやってみるまでもなく明らかなのに、どうしてアルミテープと一緒に何か足場になるようなものを持ってこなかったのだろう。
(マジかよ……)
 どうやら自分で思うより余裕がなくなっていたらしい。
 千景は激しい自己嫌悪に陥ると同時に、一気に顔が熱くなるのを感じた。背後からの真っ直ぐな視線も相俟って、ますます身体は凍り付き、裏腹に頬や耳はどんどん熱を増していく。柄にもなく赤面しているのは明白で、よもやそんな表情では振り返ることもできないといっそう身を堅くする。
「あの、俺手伝います」
 そんな千景に、何事もなかったように流星が声をかけてくる。しかも次には「失礼します」と明るく言って、千景の下肢に腕を回し、その身体を上へと持ち上げてしまう。
「っ! な、なに」
「これで届きませんか? 届かなかったら、次は肩車でも――」
「とどっ……、届いた、届いた、けどっ……」
 突然ぶれた視界に、千景の声がわずかに上擦る。よろめいた体勢を立て直そうと、慌てて触れた天井に手を添える。流星の言うとおり、確かにぎりぎりながら作業ができる高さになっていた。
「何だったら俺が代わりますけど、それだと管理人さんが大変かなって……」
「いや、そういう問題じゃ……」
 流星の考えていることを理解するのに時間はかからなかった。かからなかったが、それとこれとは話が別だ。
 あまりの展開の早さに気持ちがついていかず、その証拠に驚きのあまり飛び出るかと思った心臓が未だに早鐘を打っている。
「冷たっ……」
 そこにぽたりと雫が落ちた。頭のてっぺんへと落ちたそれは、髪の中を通ってこめかみへと伝い、生暖かい感触を残しながら頬へとゆっくり下りてくる。追い打ちのように昨日のずぶ濡れの自分が連想されて、千景は思わず顔をしかめた。
「俺は全然大丈夫ですから。終わったら言ってください」
「……わかりました」
 結局千景は半ば自棄になったように作業を始めた。これ以上時間をかけるのもどうかと思ったし、何より流星の勢いに根負けしたことも大きかった。



continue...
2012.05.25