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三秒待てば 09

 翌朝、千景は住民が出払ったのを見計らって、予定通り独り風呂場に向かった。
 これまた古い型のシャワーは温度調節に手間取ったが、どうにかさっぱりすることができてほっとする。シャワーを止め、近くに置いていたタオルで髪を拭き、その傍ら、軽く周囲を片付けると、最後に浴槽の残り湯を抜いてから脱衣所に戻る。
 備え付けの鏡で軽く髪を整え、オープンラックの前に立つ。セキュリティもくそもないロッカーだと改めて失笑する。投げ込んでいた下着を手に取り、足を通そうと腰をかがめた。
 その時だった。
「管理人さんいますかっ?」
 聞き覚えのある元気な声と共に、突然背後の扉が開いた。
 どうせ誰も居ないと油断して、せっかくある鍵をかけ忘れたのだろうか。――いや、施錠はしっかりしたはずだ。ならば何故?
 千景は一瞬固まったものの、とにかく下着を腰まで引き上げ、更にシャツを羽織った上で、ようやくそちらを振り返った。
 ドアは普通に開いていた。どこか壊れたような様子もない。その傍に立っていたのは流星だ。
「あ、あの、すみませんっ」
 目が合うなり、流星は焦った風に後ろを向いた。
 それをするならもっと早く――ドアを開けた直後にはしておくべきじゃないか。
 千景は胡乱げな眼差しを向けながらも、ため息一つで意識を切り替え、先に着替えを済ませることにした。
「急いでいたようですけど、何かありましたか」
 荷物もまとめ、後は部屋に戻るだけとなったところで、出入り口をふさぐように立っている流星に声を掛ける。
 流星は弾かれたように振り返り、
「あ、はい、すみません」
 心なしか頬を染めた面持ちで頭を下げた。
「すみませんはいいですから」
 ため息混じりに言うと、申し訳なさそうに顔を上げる。千景は率直に訊ねた。
「それで要件は」
「あ、あの、俺の部屋、昨日からちょっと雨漏りが酷くなって……」
「雨漏り?」
 思わず瞬き、浴室の窓に目を遣った。
 昨日に引き続き、今日も雨なのは知っていた。明け方には一旦弱まっていたものの、再び雨足は強くなっている。
 しかし、かと言ってここは屋内で、普通ならあたり前に雨風をしのげるはずの場所で。仮にも金を払って住んでいる部屋の中に、雨が漏れる?
 自分にはおよそ縁の無かった状況に、千景は一瞬混乱する。それでも努めて冷静に、
「いつからですか」
「あ、半年前くらいから時々あったんですけど、ここ数日雨の酷い日はちょっと激しくて」
「半年前?」
「はい……。最初は我慢できる程度だったんですけど、さすがにこのままだとパソコンが壊れちゃいそうで……」
「どうしてその時に言わなかったんです」
 問い返すと、流星はまたも「すみません」と小さくなった。
 千景は深い息をつき、めまいを覚えたように目元を押さえる。
「とにかく、これから見に行きますから、部屋で待っていて下さい」
 言いながら、通路を開けるよう促し、流星の横を擦り抜ける。
 と、ふと後回しにしていた疑問を思い出し、少しだけ立ち止まった。
「夏海さん……ちなみに脱衣所(ここ)のドア、鍵はきかないんですか」
「え、いえ、きかないことはないと思います。勢いよく開けると開いちゃうことも多いんですけど」
「……開いちゃうんですか」
「はい、特に使う人いないから、誰も気にしてないんですけどね」
(気にしてないって……)
 笑顔で返され、口端が引きつる。
(ていうか、そりゃ“開いちゃう”じゃなくて“強引に開けちゃう”の間違いだろ)
 すかさず思ったが、もはや言い返す気力はなかった。
 千景は力無い声で「そうですか」と残して、脱衣所を出て行った。



continue...
2012.04.27