Entry

三秒待てば 08*

 脱衣所の掃除を済ませた千景は、最後に湯船の温度を確認してからその場を後にする。廊下に出ると、玄関前の壁掛け時計がちょうど十九時を知らせたところだった。
 早乙女と顔を合わせてから千景は終始不機嫌だった。それでも、初日にしては予定通りに動けたらしいと思えば幾分肩の荷も下りる。
「つか、こんなの初めて見た……」
 壁掛け時計は、鳩時計だった。実物を見たのは初めてで、千景はその前で足を止め、半ば感心するようにそれを見上げた。
 玄関を背にして立つと、正面には二階へと続く階段がある。時計はその横の壁――間に階段下の収納庫へと続く狭い通路があるものの――に掛けられており、一見して年代物だとわかる代物だった。
 千景はしばし時計を眺め、それから何気なく二階へと続く階段に視線を移した。
「あれ、もしかして新しい管理人さん?」
 そこに背後から声がかかる。聞き覚えのない高めの声だ。振り返ると、いつのまにか三和土に人が立っていた。
「あ、僕201の渋谷です」
「……どうも」
「えっと、管理人さんは確か、桜、ち……」
「『かげ』です」 
「かげ?」
 脱いだ靴を下駄箱に入れ、ネクタイとワイシャツの襟元をくつろげながら、男は僅かに首を傾げる。千景より少し背の低い、どちらかと言えば中性的な顔立ちの青年だった。
 千景は愛想のない目礼をし、平板な声で端的に答えた。
「桜千景です」
「あ、そういう意味か。――って、え? そうだっけ? ていうかその前に、女……じゃなくて、男?」
「男です」
「そ、そうなんだ……」
 渋谷は一瞬がっかりしたような色を見せたものの、すぐさま気立ての良さそうな笑みを浮かべた。なるほど、こういう表情は教師として好感を持たれそうだ。書類にもあったが、夏海からの情報でも渋谷は小学校の教師と言うことだった。
 しかしそう感心する一方で、千景にはどこか胡散臭いようにも見え、
「あ、僕は渋谷、渋谷環。今後ともよろしく」
 近くへと歩いてきた渋谷がいっそう笑みを深めるのに、同様に応える気にはなれなかった。
 千景はただ無言で会釈を返すと、そのまま管理人室へと歩き出した。そうして、背中に渋谷の視線を感じながらも、全てを撥ね付けるみたいに部屋の扉を閉めた。


 その夜、千景は風呂には入らなかった。面倒だったこともあり、気が乗らなかったこともある。何より、誰かと鉢合わせする可能性を考えると腰が上がらなかった。
 幸い、古い共同風呂とは言えシャワーは備え付けられていた。それなら日中彼らが仕事に出かけている間に入るようにすればいい。できれば湯船には浸かりたい方だが、それも状況を考えれば我慢できる。
 そう自分に言い聞かせながら、千景は早々に部屋の電気を消した。いつもならこれから夜遊びにでかけても可笑しくない時間に床に就き、子供みたいに目を閉じる。眠気はなかなかおりてこない。それでも、眠る努力をした。
 ――サクヤって名乗ってたよね、お前。
 ふと、数時間前に言われた言葉を思い出した。
「………」
 千景は小さく舌打ちし、うっすら目を開けた。
 今までの自分を省みれば、お世辞にも日頃の行いがいいとは言えなかった。節操がないと言われても否定はできないし、独り身(フリー)であるのをいいことに、出会ったその日に身体を重ねたこともある。自分の嗜好をはっきり自覚してからというものそれはどんどんエスカレートし、いつしか一度だけの関係に終わる付き合い方も当たり前のようになっていた。
 その中の一人だった。あの男――早乙女、寒矢は。
 バーで顔を合わせたのはほんの数回程度だった。それもだいたい千景――店では確かに『サクヤ』と名乗っていた――の方が先に酔っていたから、記憶にはほとんど残っていなかった。店内は暗く、直接話したこともないに等しい。印象が薄いのも無理はなかった。
 それが数年前の十二月、たまたま二人で飲む機会に恵まれて、結果近くのホテルに行くことになった。誘ったのがどっちだったかまでは今でも思い出せないが、いずれにしてもそれまでの早乙女――同様に店では『カンヤ』と名乗っていた――のことを千景は気に入ったのだろう。そうでなければ千景がその気になるはずがない。貞操観念が低いと言っても、決して誰でもいいわけではないのだから。
 しかし、いざその時になると早乙女の印象はがらりと変わった。
 早乙女は言葉こそ一貫して紳士然としていたものの、部屋に入るなり千景を浴室に連れ込むと、ろくな前置きもないまま千景の身体を開かせたのだ。突然のことに抗おうとする千景を押さえつけ、湯を溜めた浴槽の中で強引に腰を抱え込むと、肌当たりの良い入浴剤の効果だけを頼りに、一気に屹立を中へと埋め込んだ。
 千景の口から、声にならない悲鳴が上がった。背中が軋み、腰を押しつけられるたび眼窩で火花が散った。
 千景は苦痛に顔を歪め、喉を喘がせた。そうしながらも、浴槽の縁を掴み、どうにか早乙女から逃れようとした。「離せよ、冗談じゃない」と身をよじれば、早乙女は「そうかな。案外良さそうだけど」と楽しそうに口端を引き上げ、わずかに離れた千景の身体を引き戻した。
 その後はその後で、ベッドに組み敷かれるなり両手をベルトで拘束された。酒に対する耐性と体格差にいいようにされるのが心底癪に障り、かと思えば巧みに身体を煽られて、気がつけば呆気なく吐精していたのが余計に居た堪れなかった。そんな風に一方的すぎるのは好きじゃないと、何度言っても聞き入れられず、挙げ句玩具まで使われて、最後は気絶するように意識を手放す羽目になっただなんて今考えても屈辱だ。
 どちらかと言えば淡泊な千景に対し、早乙女は意地悪く執拗に相手を攻めるのが好きなようだった。
「マジ冗談じゃねぇ……あんなヤツ二度はねぇよ」
 記憶が鮮明になるにつれ、嫌悪感が増してきた。千景はこの上なく忌々しげな表情で吐き捨てると、思考を閉ざすように目を閉じた。



continue...
2012.04.14