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三秒待てば 07

「――…」
 千景は思わず目をみはり、遅れてそんな自分に舌打ちした。動じないふりをするのは得意なはずなのに、こんなときに限ってそれができない。何でも見透かしたような早乙女の態度のせいだろうか。できればそうは思いたくないけれど。
「別に憶えてないからって責めてるわけじゃないよ」
 早乙女は笑うように目を細め、横に立つ千景の顔を覗き込んだ。
「だったらもう忘れて下さい。俺はとっくに忘れましたから」
 せめてもと平静を装い、当て付けるようにため息をつく。素っ気なく言いながら視線をはずし、ともかく何事もなかったように仕事に戻ろうとした。
「まぁ、待ちなって」
 それを再び早乙女が阻む。踏み出した千景の腕を掴み、かと思うと強く引き寄せられる。そのまま近くの壁へと身体を押しつけられて、千景は一瞬息を呑んだ。
「それがなかなか難しくてさ」
 のらりくらりと言いながらも、その手は的確に千景の動きを封じてくる。肩を押さえる力は見た目より強く、強引に抜け出すには随分骨が折れそうだった。
 千景は諦めたように息をつき、心底迷惑そうに早乙女を見た。
「……何が難しいんですか」
「こっちはまた会いたいと思っていたからだよ。――まぁ、できれば、だけど」
「そちらの都合なんて知りませんよ」
 先刻よりずっと冷ややかな声で言っても、早乙女は千景を解放しない。どころか、呆れた千景が一瞬視線を逸らしたとたん、
「――!」
 隙を突くように唇を重ねられて、千景はとっさに顔をよじった。
「ちょ……、なっ――」
 制止の声を上げようと口を開くが、そこにまた唇が押し当てられる。今度は顔の向きすら変えられないほど深い角度で口付けられて、吐息すら全て奪われた。
 身を引こうにも背後は壁でそれ以上の逃げ場はない。反射的に押し返そうとした腕も、容易く掴まれ、壁に縫い止められた。
 せめてもの抵抗にと頑なに口を閉ざそうとしても、顎にかけられた指がそれを許さない。巧みに力を込めて隙間を作ると、そこからすぐに舌先が入り込んできた。
「ふ……っ、……」
 息苦しさに喉が引きつり、知らず視界が涙ににじむ。
 歯列を辿られ、上顎を擦られ、敏感な粘膜を執拗にまさぐられると、意に反して身体から力が抜けていった。
(この感じ――…)
 近まった距離に煙草の香を強く感じる。霞がかった意識の中で、千景は不意に思い出した。
 自分はこの臭いを知っている。この口付け(やり方)に憶えがある。――つまりはこの男と、身体を重ねたことがある。
 いつのまにか、腰の奥に熱が灯っていた。
 千景は慌てて意識を戻し、思い切って相手の唇を噛んだ。
「っ、……」
 微かに眉を寄せ、早乙女が離れた。
 千景は壁に沿ってずり落ちそうになる身体をどうにか立て直し、濡れた感触の残る口元を拭った。
 呼吸を整え、姿勢を正すと、
「残念。あわよくばこれからも、とか思ったんだけど」
 傷ついた唇を押さえていた早乙女が喉奥で微かに笑う。
 千景は吐き捨てるように息をついた。
「もっと相性いいやつ探せよ。少なくとも俺はMじゃないからアンタとはもう寝ない」
 さらりと言って踏み出すと、今度こそ早乙女の横を擦り抜ける。
 背後で驚いたように早乙女が振り返った。
「なんだ、憶えてんじゃない」
「煙草の臭いで思い出した」
 正しくは『&キス』だが、それは言わない。
「煙草?」
「周りで同じの吸ってるヤツいなかったし」
「へぇ」
「つか俺、人の顔憶えらんねぇから」
「憶える気がないの間違いじゃないの」
「うるせぇな」
 千景は掃除用具入れの前で足を止めた。
「だいたい、バーに居たときは大概酔ってたし……酔ったら記憶飛ぶのとかざらだし」
「あー、そういやべろんべろんだったなぁ、あの時のお前」
 取り出したモップを片手に、振り返ることもせず、千景は面倒くさそうに視線を落とす。
「そういうことだから、もういいだろ。この話はこれで終わり」
「え、終わり?」
「終わりだよ」
 被せるように念を押して振り返る。と、早乙女が思いの外近くに立っていて、内心少しぎょっとした。
 早乙女は無言で顔を寄せ、近くなるにつれ唇に隙間を作る。千景は「懲りねぇな」と瞳を眇めた。
 後ろは掃除用具入れで、すんなりかわすスペースはない。派手に騒ぐのは性に合わないし、かといって何度も好きにされるのはもっと気に入らない。
 いっそ直前で顎でも突いてやれば懲りるだろうか。幸い手の中にはモップがある。
 呼気が掠めるほど間合いが詰められると、千景は柄を持つ手に密かに力を込めた。
 しかしその刹那、早乙女の動きがぴたりと止まる。そして全てを見越したように、次にはあっさり身を引いて、微かに口端を引き上げた。
「期待した?」
 内緒話のように言われて、千景は呆気取られた。
「するかバカ死ね」
 我に返り、モップの柄で早乙女の腹を突いた。
 早乙女はかわし損ねたそれに軽い呻き声を上げて、「死ねは酷い」と苦笑しながら更衣室を出て行った。



continue...
2012.03.30