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三秒待てば 06

 三十分ほどたった頃だろうか。いつのまにかうとうとしていた千景は、自分のくしゃみで目が覚めた。
「や……マジ風邪ひくっての」
 ぼやきながら身をすくめ、のろのろと起き上がる。そうして、ふと窓際の壁に目を遣ると、
「そうだ、エアコン……」
 もともと設置されていたエアコンはさほど古い型でもなく、傍らにはちゃんとリモコンホルダーも取り付けられていることに気付いた。
 千景は腰を上げ、早速暖房のスイッチを入れた。小さな電子音と共に送風口が開く。
 水気を拭いて着替えただけでは、芯まで冷えた身体はなかなか温まらない。それでもすぐに浴びられるシャワーもないのだから現状で我慢するしかない。
 しばらくすると、待望の温風が吹き出してきた。千景はようやく息をついた。これでひとまず暖はとれる。このまま部屋の掃除なり片付けなりをしていれば、追々寒さも感じなくなるだろう。
 千景は部屋の中央に戻り、おもむろに照明の紐を引いた。もう何年も壁のスイッチかリモコンしか触っていなかったが、使い方は知っていた。建物に似合いな、古めかしい木枠の照明器具だった。
「あ……。つーか、もしかして風呂の用意すんのも、これからは俺の仕事……?」
 その刹那、千景の顔が再び強張る。
 それから更に一拍遅れて、「正解!」とばかりに部屋の電気が点いた。


「あ、新しい管理人さん来てる?」
 不意に廊下の方から新たな声が聞こえ、間もなくコンコンとガラス扉をたたく音がした。
 千景はやっと風呂掃除を終えたところで、湯船に向けて蛇口をひねると、腰を押さえて振り返った。
 開けたままにしていた脱衣所へと続く扉の傍に、一人の男が立っていた。時刻は十八時を回ったところだった。
「初めまして、202号室の早乙女です」
 早乙女と名乗った男は、こなれた風な笑みを浮かべ、僅かに頭を下げて見せる。
「……初めまして、今日から管理人をすることになった桜千景です。よろしくお願いします」
 管理人さん、と呼んでいたことからも、相手がここの住民だろうことは予想がついていた。千景はろくに相手の顔を見ることもせず、形ばかりの会釈を返した。
「あれ……?」
 と、思いがけずそんな呟きが耳に届き、千景は静かに顔を上げる。
「あ、やっぱり」
 その鼻先を、男は不躾に指さした。
「俺だよ、俺。憶えてない?」
「……は」
「嘘、憶えてないの? カンヤだよ、カンヤ」
「カンヤ?」
 千景は訝しげに目を細めた。
「酷いなぁ、こっちはずっと憶えてたのに」
 どこか意味深に笑みを深めた男は、だらしなくない程度に着崩したスーツ姿で、ほのかに煙草の香りをまとっていた。
 猫背のせいで多少低く見えるが、それでも172センチの千景より――どころか、その上の流星より更に背が高い。小さい顔、すらりと長い手足は姿勢さえ気をつければモデルでもつとまりそうなほどで、なるほど流星の言った「すらっと格好いい人」という言葉も確かに当てはまりそうな気がした。
「申し訳ないですけど、記憶にないですね」 
 しかし、どちらにしても千景にはそれしか言えなかった。
「前にバーで一緒に飲んだじゃない、十二月の……ああ、クリスマスの頃だったかなぁ」
 そう言われても、なんら思い出されることはない。顔も声もまるで覚えがないのだ。残念ながら確実に人違いだと決め込んで、千景は愛想もなくその脇を擦り抜けようとした。湯をためている間に、脱衣所の掃除を済ませるつもりだった。
 そんな千景を横目に、早乙女は勝手に話を続けた。
「ストレイキャットってバー。知らないとは言わないでしょ。少し前に店自体はなくなっちゃったみたいだけど」
 その言葉に、千景の足が止まった。
 そんな千景の反応に、早乙女は一瞬呼気で笑う。そして、
「あの時――サクヤって名乗ってたよね、お前」
 再度試すみたいに囁いた。



continue...
2012.03.16