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三秒待てば 05

 流星を部屋から追い出した千景は、無言で携帯を取りに戻り、すぐさま電話帳から一つの番号を呼び出した。
 呼び出し音が鳴っている間に、裏庭に面した掃き出し窓の外も見た。念のため押し入れまで開けて覗いてみたが、やはりそれらしいものはどこにもなかった。
『ああ、千景か。どうした、早速トラブルでもあったか?』
 ややして、電話口に出たのは祖父だった。住み込みの使用人に電話を取り次がれ、千景の声を聞くなりからかうように言った祖父に、
「リフォームの件どうなってんだよ?」
 千景は我慢しきれず言葉を被せる。ガラスの飾りがついたストラップが背面にぶつかってもお構いなしだ。
『リフォーム? 何の話だ?』
「何の話って、ここ……管理人室のリフォームの話だよ!」
『管理人室の? いや? 特にその予定はないが』
 祖父の方はきわめて落ち着いていた。どころか、逆に不思議がっているようにも聞こえ、千景は一瞬絶句する。
「え、いや、だって姉さんからの話だと、シャワールームはつけてくれてるからって」
 気を取り直して問い直す。当然だ。それだけをあてにして来たようなものなのに、簡単に引き下がれるはずがない。
『ああ、そのことか。そりゃ千歳は女の子だからな。今の住人は男ばかりのようだし、そんな中で共同風呂を使わせるのはさすがに可哀想かと思って、そういう話もしていたんだが』
「いたんだがって……、それって、もしかして俺に変わったから、俺が男だから、その予定はなくなったってことかよ?」
『まぁ強いて言うなら、そういうことだな』
「そ…――」
 そういうことだなって――。
 あまりにさらりと告げられて、千景は再び言葉に詰まった。
 嘘だろ……冗談じゃない。そんなの約束と違うじゃないか。
 思っても言い返せないのは、祖父の性格を嫌でも知っているからだ。
 祖父は自分がこうと決めたことは余程のことがない限り覆さない。そもそも、祖父は千歳(あね)には甘くとも千景には厳しいのだ。つまりここで千景が「男でもシャワーをつけて」なんて言ったところで応じてくれないのは明らかだった。
『言っておくが、一旦引き受けたからには簡単に投げ出すような真似はするなよ。お前の都合に合わせて前の管理人との話もつけたんだからな』
「……わかってるよ」
『まぁ、お前もこれで定職に就けたわけだし、良かったじゃないか。家で千歳に小言を言われることもなくなるし、おまけに借金も返せる。――なに、もし今後本当にやりたい仕事が見つかれば、その時は辞めるなとは言わんから』
 一通りの話が終わると、千景は崩れ落ちるようにその場にへたり込んだ。
 沈黙した携帯を傍らに転がし、そのまま背後に身体を倒す。見るともなしに視界に入ったのは、昔ながらの照明と低い天井だった。
『何でも中途半端でいい加減な千景。おじいちゃんにも迷惑ばかりかけてないで、たまには恩返しの一つでもやってみなさいよ』
 一月ほど前、千歳に言われた言葉がいやでも思い出される。
 昔から千歳は優秀で、千景が敵うところなどないに等しかった。裕福な家柄のこともあり、否が応でも周囲には比べられ、そのたびどんどん素直になれなくなっていった千景は、おかげで必要以上に反発し、親代わりの祖父にも多大な迷惑をかけてきた。その自覚があるにもかかわらず、大学を卒業してからも職を転々とし、今回の話が出たときも一年と続かず辞めた次の職場を探しているところだった。
 就職難を理由に豪邸と形容できる実家でだらだらと過ごし、息抜きと称して遊ぶ際の金さえ全て祖父に借りていた。呆れた祖父は別に返さなくて良いと言ったが、そう言われれば言われるほど、返すと言い張ったのは千景の方だ。それをいまさら撤回できない。
「だからって……」
 部屋にシャワーがないなんて話が違う。この仕事を受けるにあたり、それは千景にとって最重要事項の一つだったのに。
 千景は天井を見つめたまま深いため息をついた。
「……明日たらいでも買ってくるか」
 そして自嘲気味に独りごちると、諦めたように目を閉じた。



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2012.03.09