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三秒待てば 04

 自称、子供嫌いの犬嫌い。元々自分のペースを乱されるのが苦手な千景は、そういった傾向のある相手にはまず自分からは近づかない。
 なのにどういうわけか相手から好かれることは多く、どんなに手酷い態度で牽制しても、結果として一方的に懐かれてしまうことも少なくなかった。
「あ、環さんが、さっき言ったオーブンレンジの話をしてた人です。小学校の先生をしてて、何事もなければ十九時には帰ってくると思います」
 たとえば現状だってそれに近い。
 初めて会った日に『バカ犬』とまで言われたのに、目の前にいる青年は何ら動じることなく笑顔で居座っている。さしずめ悪気のない図々しさと自覚のないお節介さを兼ね備えた、天使と言う名の悪魔とでも言うべきか。
(理解できない)
 そしてそんな人種を目の当たりにするたび、千景はいつも思うのだ。この手のタイプの思考回路は一体どうなっているのだろうと。思うだけで、結局答えは出ないのだけれど。
「で、202号室の早乙女さんは……」
 千景は何も応えなかったが、流星は構わず説明を続けた。
 先刻怒鳴りつけた際、勢いで床にたたきつけた書類も普通に流星が拾い集めた。何事もなかったように千景に手渡したそれを控えめに指さし、
「早乙女さんは、あの駅のところの電器屋さんのスタッフです。すらっとした格好良い人で、可愛い女の子がたまに遊びに来ます」
「可愛い女の子?」
「はい、月に一度くらいですけど」
 流星は最後にこくんと頷いた。
 祖父が送ってくれた名簿には、氏名だけでなく職業についても大まかな記載がしてあった。だからわざわざ教えてもらうまでもないと、適当に聞き流していたのだが、
「……そうですか」
 千景はそこで一旦瞑目すると、持っていた名簿を静かに下ろした。
そして、
「わかりました。もうそれ以上は結構です。今日はいろいろありがとうございました」
 次には不意に立ち上がり、唐突に話を切り上げた。
 きょとんと見上げてくる流星に、作り笑いで言葉を付け足す。
「俺もそろそろシャワーくらい浴びたいですから」
 それは嘘ではなかったが、本心は別にもあった。
 もともと他人への興味は薄い方だし、誰がどんなだろうとどうでもいいが、これからの立場上、聞かなくていいことはできるだけ聞きたくなかった。余計な知識や先入観のせいで後々何かあっても面倒だし、実際そのせいで何度か苦い思いをしたことのある千景は、流星に他意がないのを察しながらも、あっさり話題を切り替える。
「何かあればまた声をかけさせてもらいますから」
 そうして暗に退室を促しながら、思い出したように室内に目を向けた。
 梅雨時も後半で気温はそう低くないものの、全身ずぶ濡れになったのはやはりまずかったのか、そろそろ肌寒さも身に染みてきた。とっとと熱いシャワーでも浴びて身体を温めないと風邪でもひいてしまいそうだ。
 二階にある賃貸用の部屋には風呂もシャワーもついていないが、千歳の話によると管理人室だけはシャワー室がついているとのことだった。最初はこの仕事を嫌がっていた千景も、それがあったからこそ何とか引き受ける気になったのだ。
 千景は改めて部屋の中を一望した。
「……?」
 しかし、一見ではそれがどこにあるのかわからない。
 狭いシャワーブースだと聞いてはいたが、かと言って一度に見渡せるこの六畳二間続きの和室のどこに隠せるというのか。
 キッチンが併設されたこの部屋から、見える扉は二つだけ。一方は廊下へと続く出入り口、そしてもう一方はトイレだと思っていたが、
「まさかこの先に増築……?」
 千景は恐る恐る踏み出すと、思い切ってそのドアを開けてみた。
 トイレだった。
「………」
 ――と言うことは。
 と言うことは……?
「夏海さん」
 千景は不意に呟いた。
「この部屋……引っ越し業者が入る前に、リフォーム業者って入りましたよね」
 独りごちるように漏らした声音は、問うと言うより念を押すようになった。
 そんな千景の様子に、流星は小さく首をかしげて言った。
「いえ、俺の知る限りは入ってないですけど」
 頭の中が、一瞬にして真っ白になった。



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2012.03.03