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三秒待てば 03

 アパートの名前は『月見荘』。名付けたのはその所有者でもある千景の祖父だ。
 建てられたのは軽く50年以上前のことで、以来、特に大きく手を加えたこともないらしく、必要最低限の修繕だけをしてきたという木造の建物は、なるほど相応の印象を与える佇まいだった。
 間取りも古く、二階にある賃貸用の部屋は全て風呂なしの1K――トイレは有り、洗濯機置き場は無し――で、代わりに共同で使える風呂場とコインランドリーが一階に設けられている。一階には他に、数年前まで喫茶店だったというレトロなカウンターのある狭いロビーがあり、玄関――住人はここで靴を脱ぎ、下駄箱に入れる――を挟んだその反対側の端に、これから千景が使う予定の管理人室があった。ちなみに管理人室は六畳二間続きの和室で、一方の掃き出し窓から続くささやかなテラスに洗濯機置き場も完備されている。
 と、手元の書類にも書いてあるわけだが、
「いえ、オレの隣の部屋は物置だって聞いてますけど……」
 中でも二階の角部屋の一つは空き部屋となって久しく、いつからか『誰でも使えるトランクルーム』と化しているらしい。
 手早く着替えを済ませた千景は、改めて祖父から送られてきた書類の内容を確認していた。と言うのも、書類には満室と書かれているのに、住民名簿には三名分の記載しかなかったからだ。不審に思って聞くと、流星が入居した六年前にはすでにその状態だったと言う。
「じゃあ、今住んでるのは三人なんですね」
 千景は紙面を見ながら念を押した。
 ここを管理しているのはオーナーである祖父自身だし、その祖父がそれでいいなら別に文句はない。使える部屋ならもったいない気がしないでもないが、だからと言ってそこまで口出ししようという性分でもなかった。
(ただそれならそれで一言添えるくらいしろっての)
 千景は心の中でぼやきながら、畳の上に腰を下ろした。
「で、えっと、そちらは……夏、何でしたっけ」
「夏海です。夏海流星。部屋は物置部屋の隣、 203号室です」
「夏海……」
 名簿にある青年の名前を目でたどりながら、小さく繰り返す。
 すると少し離れたところで正座をしていた流星が、嬉しそうに背筋を伸ばした。
「201が渋谷環さん、202が早乙女さんです」
 はにかむように笑って続ける流星を、
「そうみたいですね」
 千景はすげなく受け流す。言われなくても名簿にそう書いてある。
 しかしそんな千景の態度もどこ吹く風で、とにかく流星はにこやかに千景を見つめていた。
 千景より10センチほど身長が高く、何かスポーツでもやっていたのだろう体格の流星は、黙っていれば顔つきも精悍でいわゆる『大人の男性』に見えなくもない。ただそれも笑えば一転、一気に子供っぽい印象に変わるのだ。そうして見せる無邪気な反応、屈託のない爽やかな笑顔は、まるで太陽のように明るく相手に降り注ぐ。――それこそ、否が応でも。
「あの、もし困ったことがあったらいつでも言って下さい! 俺にできることは何だってしますから!」
「はぁ……それはどうも」
 くわえて性格は、おそらくバカがつくほどのお人好し。
「とりあえず、どうしましょうか。荷物ほどくの手伝ったらいいですか?」
「いえ……大丈夫ですから」
「あ、先に部屋の掃除をしたほうがいいですかね」
「いえ、本当に」
「そんな、遠慮しないでくださいよ」
「………」
 ――それは要するに、
「遠慮じゃねぇよ! いらねぇっつったらいらねぇんだよ、少しは空気を読めこのバカ犬!」
 と、珍しく声を荒げるほど、千景の苦手なタイプだった。



continue...
2012.02.24