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三秒待てば 02

「すみません、あのっ……」
 背後から追いかけてくる声を無視して、千景は『管理人室』と書かれた部屋のドアを開けた。
 室内には先に荷物が届いており、すでに設置が済まされた家電の他に、未開封のダンボール箱がいくつか積み上げられていた。千景はその中の一つを引っ張り下ろすと、急くように中身を探り始める。
「あの……管理人、さん?」
 開封したダンボールは、途中から面倒になりそのままひっくり返した。それを何度か繰り返していると、閉まり損ねていたドアの隙間から再び声がかかった。先ほど夏海流星と名乗った青年が、おずおずと顔を覗かせていた。
「……」
 しかし千景はそれにもまるで目もくれず、黙々と荷物を広げていく。探しているのはタオルだったが、荷造りをしたのが自分ではないため、どこに入っているのかわからない。詰め込まれていた衣服が足下に散乱し、荷物と共にこぼれ出た紙束がばさばさと畳の上に飛散した。
「つか、どこに何を入れたかちゃんと書いとけよっ……」
 思わず忌々しげに舌打ちすると、
「し、失礼しますっ」
 堪えかねたように流星が勝手に上がり込んできた。流星は雑然とした荷物の中から、一枚のタオルを拾い上げた。
「これ……ですよね、探してたの」
 千景は一瞬言葉を失い、遠慮がちに差し出されたそれをばつが悪いように掴み取った。流星は宙に残った手をゆっくり下ろした。
「あの……」
 千景が手にしたタオルで頭や身体を拭き始めると、流星は改めて口を開いた。
「お、お名前……桜さんだって聞いてて」
「それは名字」
「あ、じゃなくてっ……下も確か、千歳(ちとせ)さんって聞いて」
「それは姉の名前」
 千景の八つ当たりめいた物言いにも負けず、どうにか弁明しようとする様は、さながら大好きな主人に怒られまいとする飼い犬のようにも見える。
(何だか『ララ』みたいだ)
 千景はふと思ったが、別段手を止めることなく、汚れたタオルをシンクに放り投げた。
 ララというのは、実家で祖父が可愛がっている飼い犬の名前だった。祖父に従順なのはもちろんのこと、姉である千歳に良く懐き、使用人にも愛想が良いのに、千景にだけは容赦なく飛びかかってくるゴールデン・レトリバー。千歳に言わせればそれだけ愛されているとのことだが、なめられているの間違いだろうと千景は思っている。
(まぁどっちだっていいけど)
 千景は羽織っていたカーディガンとシャツのボタンを外し終えると、一気に合わせを開いて肩を出した。
「あ、でもあの荷物! あんな多機能なオーブンレンジ、使いこなせるなんていいお嫁さんになるだろうなぁって……っ」
 そこに流星が思い出したようにたたみかけた。千景はぴたりと動きを止めた。
「悪かったな。嫁に行けないやつが料理好きで」
 言いながら、ゆらりと流星の方を見た。初めてまともに視線を合わせた。しかしその眼差しは極めて冷たく、語調もひときわ素っ気なかった。
「ごっ……ごめんなさい、俺、そんなつもりじゃなくて……!」
 そこでようやく自分の言葉が逆効果だったと気づいたのか、流星はみるみる蒼白となった。無造作に立たせた茶髪の頭を両手で抱え、かと思うと土下座でもしそうな勢いで深々と腰を折った。声音もどこか上擦って、怯えるみたいに震えている。
 千景は暫し沈黙したのち、脱ぎかけていたシャツを一旦元に戻した。
 流星の態度を見ていると、なんだかこっちが悪いみたいに思えてくる。新しい管理人は可愛い女の子だと勝手に期待して、盛り上がって、一方的に失礼な態度をとったのは相手の方なのに。
「――もういい。もういいですから、頭を上げてください」
 千景は毒気を抜かれたように息をついた。
「姉の名前が伝わっていたのは、最初は本当にその予定だったからで……、それが急遽変更になったのをちゃんと伝えていなかったのは、こちらのミスですし」
 事務的ながらも説明すると、流星はそろそろと顔を上げた。
「じゃあ、あの」
 その表情が、ようやくほっとしたように明るさを取り戻す。
 応えるように、千景も笑った。
「はい、だからもう気にしなくていいですよ。俺も忘れますから」
 ただし、千景の笑みは見るからに形だけのものだった。



continue...
2012.02.17