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三秒待てば 01

 ばちばちと傘をたたく音がうるさい。意識して歩いても、自然と汚れる足下にため息が出る。湿気をはらんだ黒髪が、額や首筋に張り付くようで鬱陶しい。梅雨時にしては安定した天気になると聞いていたのに、予報はあくまでも予報ということか。
「何が曇り時々雨だ……」
 忌々しげに呟くが、それもすぐに掻き消える。
 強すぎる雨足のせいで、どんなに目をこらしても視界は良好とは言えず、そうでなくとも重い足取りが更に重くなる。幸いと言えば手荷物が少ないくらいで、他には何も良いことなど見つからない。どころか、探せば探すほど気持ちは鬱いでいくばかりだ。
 中規模な家電量販店が併設された最寄りの駅を出て、そこそこ賑わっている繁華街を抜けると、丘へと続く緩やかな坂道が見えてくる。そのふもとには古めかしい民家が建ち並び、少し坂を上ったところには、小学校と中学校が並んで建っていた。丘の上にあるのは、数年前に新設された私立大学。そのため裾野に点在する賃貸物件は比較的多く、中でも家屋の少ない中腹に佇む、見るからに鄙びた木造のアパートが、
「……!」
 不意に通りかかった車に泥水を引っかけられ、いっそう悲惨な体をさらす羽目になった、桜千景(さくらちかげ)の目指している場所だった。
「冗談だろ……」
 頭の中を占める不平不満ばかりに気をとられ、すっかり油断していた千景は顔からもろに水をかぶった。一度もスピードを緩めることなく走り去ったのは、見るからに若者が好みそうなスポーツカーだった。上の大学に通う大学生かもしれない。目的のアパートまで、残すところ五十メートルというところでの出来事だった。
「何なんだよ、いったいっ……」
 額から頬へと、生ぬるい水が伝い落ちてきた。あご先や髪の先から、濁った雫がぽたぽたと滴る。着衣はすでにびしょ濡れだったが、そこに新たな不快感が加わった。
 千景はぞんざいな手つきで顔をぬぐい、深く長いため息をついた。
「――ここか」
 しばらくその場に立ち尽くしていたものの、結局どうしようもなく歩き出した千景は、間もなくたどり着いた門の前で再び足を止めた。古ぼけた門扉脇の表札には、『月見荘』と書かれている。
 門扉を開閉すると、キィ、と金属のこすれる嫌な音がした。芝生が敷き詰められているように見えた庭は、その実単なる雑草でしかなく、天候のせいか昼下がりにもかかわらず点灯している玄関灯は、今にも切れそうにちらついていた。
 なるほど、古い古いと聞いてはいたが、軽く想像を超える有り様だ。
 千景は力なく肩を落とすと、諦めたように玄関ポーチへと歩き出した。
「……?」
 軒下に入った千景は、ふと玄関扉のガラス越しに人影を見た気がして瞬いた。
 気のせいだろうか。思いながら、さしていた――その意味があったかどうかは微妙な――傘を静かに下ろし、怪訝そうに目を細める。
 その刹那、
「ようこそ! 歓迎します、桜さん!」
 きわめて元気な声とともに、扉が内側(なか)から勝手に開いた。そこに立っていたのは、千景よりも十センチほど上背のある一人の青年だった。
 青年は待ちきれなくなったように一歩前へと踏み出して、
「あの、俺、夏海流星(なつうみりゅうせい)と言います。これからよろしくお願いします、新しい管理人さん!」
 千景の心情とは裏腹に、この上なくさわやかな笑顔を浮かべて見せた。
 数秒後、ばさりと音を立てたのは、千景の手の中から落ちたびしょ濡れの傘だった。



continue...
2012.02.10