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それも一つの 13

「帰る? これから?」
 そろそろ昼食を――そう言って山頂を後にした彼の車が、来た道をのんびり下っていく。
「本気?」
 繰り返される問いに、俺は彼の顔を直視できず、窓の外を眺めたまま頷いた。
「十七時の飛行機に乗る予定なんだ」
 その言葉に嘘はなかった。が、本来ならそれは三日後の話。
 だけどもう、いまの俺には堪えられなくて、彼の傍にいるのが辛すぎて、
(とにかく、出来るだけ早く日本を離れたい)
 それを顔に出さないようにするだけで精一杯だった。
 ――かと言って、彼のことを完全に諦めたかと言えばそうでもない。
 結果だけ見れば、
「こんな俺に、根気良く付き合ってくれる人間なんて」
 そう零した彼の言葉に、ギリギリで引き止められた形だ。
 だけどこんな心境のまま彼の隣にいるのはやはり苦痛でしかなく、だから俺は急遽帰国を早めることにした。頭を冷やすためにも、ここはひとまず距離を置くべきだと思って。
「本当に……今日、なのか? 最初からその予定だったのか……?」
 言葉を重ねる彼の、柔らかな表情が翳る。残念そうに眉根が歪む。声まで微かに揺れていた。
(だから……そう言う表情(かお)をしないでくれ)
 貴方がそんな風だから、俺もつい余計な期待をしてしまうのだ。
 貴方の中に『セイ』と言う存在があるのを知った時から、代わりでいいと割り切ったつもりだったのに、それもいつしか変えられるかもしれないと大それた夢を抱いてしまう。
 貴方が欲しくて堪らない。本当は身体だけじゃなく心も欲しい。そろそろちゃんと俺を見てくれないか――。
 いままでだって、何度そう縋りつきたい衝動に駆られたかしれない。
 特にそれが顕著だったのは、彼が精神的に不安定になっている際だ。一方ではそんな卑怯な真似はしたくないと思いながら、そのくせいつだって心のどこかでそれを狙っていた。
 だから貴方があのタイミングでアメリカの家(俺の傍)を離れたのは、ある意味正解だったのかもしれない。
 おかげで俺は踏み止まれたし、彼も少しは冷静になれたようだ。
 しかし――、
(ここに来てまたリセットか……)
 果たしてそれで本当に良かったのかどうか、俺にもよく解らない。
「帰るよ。最初からその予定だ」
 そんな胸中が反映したのか、返す声も自然と抑揚の無いものになった。
「そう、か………」
 彼は前方を見据えたまま、黙り込んだ。
(……はは)
 ややして、俺は心の中で失笑した。
 結果なんて最初から見えていたことなのに、何を今更期待していたんだろう。
 自分で帰ると言っておきながら、それを引き止めようとしない彼に苛立ちを感じている。本当に勝手だ。こんなにも自分勝手な男――なんて、俺のためにあるような言葉じゃないか。
 ――でも。それでも。
(少しくらい、貴方も俺を必要としてくれているのだと信じていた)
 思えば、気持ちが極まって涙が溢れそうになった。
 俺は静かに口を開いた。
「だって結局」
「今年こそ」
 貴方にはセイしか必要ないんじゃないか――。
 そう続けるつもりだった言葉が途中で途切れる。驚いて彼を見ると、更にかぶせるように言葉を継がれた。
「今夜こそ――君の誕生日をちゃんと祝えると思っていたのに」
 俺は目を瞠った。息を呑んだ。瞬きも忘れて、ただ彼の横顔を凝視する。
 丁度信号が赤になり、車は静かに停止した。
「改めて君に、『おめでとう』と『ありがとう』を言いたいと思っていた。それに俺は、できれば明日も君と共に過ごしたいと――いや、もう勝手に過ごすつもりでいたんだ」
 大通りに戻ってきたことで、窓越しにも街の喧騒は聞こえてくる。しかしその音が、いまはまるで聞こえない。周囲から全ての音が消えている。
 そんな中、唯一耳に届くのは彼の声だけ。なのに俺はそれをなかなか理解できない。動悸ばかりが激しくなって、纏まらない思考を更に乱す。
「でも、どうしてもそれが無理だと言うなら――」
 それとは対称的に、彼の声音は落ち着いていた。声だけじゃない。その態度も表情も、いっそ妬ましいと思うほど、何もかも普段通りに見えた。
 降って湧いたような状況に動転し、呼吸の仕方すら忘れそうな俺を他所に、彼は尚も言葉を紡ぐ。依然として正面を向いたまま、それこそ至極自然な様相で。
「俺も当初の予定に戻そうかな」
「当初の予定?」
 気がつけば反射的に問い返していた。緊張していた所為か、声が掠れた。しかし、それすら気にする余裕もなく、俺はその先の言葉をひたすらに待った。
「身近な知り合いにはもう言っていたんだけどね。本当は俺、今日日本(こっち)を発つつもりだったんだ」
「こっち……、って、日本を?」
「そう」
 浅く頷く彼の仕草を、呆然と見詰める。
「そう、って……、一体どこに」
「どこって、アメリカに決まってるじゃないか」
「……な……なん、で」
 頭の中は真っ白だった。だがなんとか声を搾り出す。
 なのにそこで焦らすかのように信号が青に変わった。彼は一旦口を噤み、再びアクセルを踏み込んだ。
 成り行きで落ちた沈黙に、俺は知らず汗ばんでいた手のひらを密やかに握り込む。指先が冷たい。息が上がる。何だか生きた心地がしない。
「なんでって……それはさっき言った通りだよ。簡単に言えば、君の顔が見たかったから。本当は、ずっと思ってたんだ。いつか一緒に過ごせればいいなって。――十月三十日と、できればその翌日も」
「――…」
 俺は言葉が出なかった。
 彼が今日、日本を発つつもりだったなんて、初めて聞いた。
 何より、彼がその日――しかも俺の誕生日まで――をちゃんと憶えてくれていて、尚且つ同じように大事に思っていてくれたことを、初めて知った。
 彼は相変わらず俺を直視することはしない。でも、その視界の端で見えているはずだ。だからきっと、それに気付いていて優しく笑ってくれた。
「だから時間の自由が利く今年こそ、帰ろうと思っていたんだよ」
 俺は今にも泣き出しそうになっていた。



continue...
2010.05.07