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それも一つの 12

「見て、ルイ。これが、いつか君に見せたいといっていた風景(もの)だよ」
 促され、俺は顔を上げた。初めてまともに、眼下に広がる景色を見た。
「……君には本当に、感謝してるんだ」
「――…」
 そこには見慣れない町並みがあった。だけどどこか懐かしい心地がして、無意識に感嘆の息が漏れる。
 都会過ぎるわけでなく、かと言って田舎過ぎるわけでもない。なのに包み込む空気はどこか長閑で、時間がよりゆっくり流れているかのような錯覚がする。
 それなりに住みやすく整備された街にも見えるのに、それでいて緑が多いからだろうか。こうして見ているだけで心が洗われるようだった。
 見渡せば奥には海も見えた。傍らの埠頭には公園もあり、日中には子供たちの遊ぶ姿が目に浮かぶ。しかし夜にはそれも一変するのだろう。案外デートスポットとしては有名な場所だったりするかもしれない。
 上空を見上げれば、快晴の青空に綿菓子のような雲が流れていた。時折吹き渡る風も、ひんやりと澄んでいて心地よかった。
「まぁ、特に物珍しいものが見えるわけじゃないんだ。でも……何かいいだろう。意味も無く、ずっと眺めていたいと思えてこないか」
 俺の肩越しに掲げていた手を下ろし、彼は嬉しそうに笑った。俺は黙って頷いた。魅入られたように、目の前の景観だけを見詰めたまま。
 気がつけば、あの妙な気負いがなくなっていた。募るばかりだった焦燥感も消えていた。爪が食い込むほどに強く握り締めていた手のひらも、いつの間にか自然と力が抜けていた。
(もう、いいか……答えなんて)
 先刻彼へと向けた感情を、心の中で整理する。
 実際口にしてしまった問いかけも、今回はひとまず取り下げよう。
 そう、考えを改めていた時だった。
「……『セイ』のことはね」
 突然彼は、何の前触れも無くその名を口にした。
 まるで不意打ちだった。すっかり落ち着きかけていた心が、たちまちざわりと波打った。
 耳に近い距離そのままなのが、余計に俺を狼狽させる。
 それを察したかのように、彼は俺に添わせていた腕をそっと解いた。俺より更に前へと踏み出して、風に遊ぶ長い髪を抑えるように額を押さえる。眼前の景色を見詰めながら。
(なんで、急に)
 反して俺は、もはや目に映っているはずの景色すら何も認識できない。
 さっきまでの心境が嘘のように、気持ちを掻き乱されていた。
 堪え切れなくて、目を閉じる。その一方で、自分が望んだものだと自らを叱咤した。
「静(かれ)にはもう、特別な相手がいるんだ」
 次がれた言葉に、再び視線を上げた。
 知らされた事実には、「まさか」とも、「やはり」とも思えなかった。
 ただその現実に、卑しくも少しほっとした。
 彼の様子に、とりたてて変化は見られなかった。声音にも違和感はなかった。面持ちも穏やかで優しく、依然として彼は見惚れた風に前方の景色を眺めているだけだった。
 彼は続けた。
「実はその相手と言うのが、また俺にとっても大切な子でね。そうなったらもう……流石にどうしようもない」
「……相手も……貴方の知り合い、だったのか?」
「そう。君にも以前話したことがあっただろう。むかーしむかし、俺が手を握るだけで、笑ってくれる子がいたって。名を英理(えいり)って言うんだけど」
 言われて記憶を辿ると、確かにそんな憶えもあった。
 その子は確か酷い上がり症で、それを唯一緩和してあげられたのが、幼馴染である彼だったとか――。
「まぁ、そもそも俺と静では、例えよりを戻したとして、きっと長くは続かないさ」
 言うなり、彼は不意に身体を反転させる。俺へと真っ直ぐに向き直り、場にそぐわない笑みを浮かべた。
(貴方は……、結局どうしたいと思ってるんだ)
 そんな風に、まるでなんでもないみたいに言いながら、本心では酷く心を痛めているくせに。
 まだ『セイ』が好きだと言うのなら、そう言ってくれればいいんだ。言ったじゃないか。俺はそれでもいいんだって。
 それとも本当にもういいとでも思っているのか。だとしたら、それは同時に俺も居場所を失ってしまうと言うことになる。俺はあくまでも『セイ』の代わりだ。それ以上でも以下でもない。
 俺自身――『ルイ』は単なる友人でしかない。実際彼の口から聞いた言葉は、恋人でも愛人でもセフレでもなく『親友』だった。セフレと言われるよりはマシだった。だが、通常『親友』とは寝ないものだ。
(セイを忘れて、そして俺を選んでくれたなら……)
 いつだって、本音ではそれを一番に望んでいた。しかし、そんなことはまず有り得ないのだ。彼は彼が『セイ』にしたように、俺に自ら手を伸ばしたことなどないのだから。
(一応、努力はしていたつもりだったけど……)
 彼が自分で忘れられないのなら、俺がそれを塗りつぶしてやりたい。せめて嫌われてはいないのだから、いつか自分に振り向かせることも出来るかもしれない。そう思って、密やかに尽力していたつもりもあった。しかし、結果は無残なものだった。
(そのくせ、『セイ』とはきっと続かない?)
 まったく意味が解からない。俺は半ば自棄になった心地で彼を見詰めていた。
「どうしてそう言い切れるのかって顔だね。でもルイ、それは君も知っているだろう」
 何も言わないでいる俺に、彼は更に可笑しげに笑う。ともすれば、満面とも言える笑みで。「知るわけない」と、心の中で吐き捨てた。一層胸が締め付けられた。
「こんな自分勝手な男に、いつまでも根気良く付き合ってくれる人間なんて、早々いないからだよ」



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2010.05.06