それも一つの 09
「さぁ乗って」
笑顔で促されるまま、俺はまた彼の車の助手席に乗った。
どこに行くかは結局聞いていなかったが、彼は自分のよく知る街を案内したいと言っていたのだから、少なくともそう遠出はしないのだろう。
現に少し走ってから、彼は「まずは周辺のドライブかな」と笑み混じりに零していた。
「何だか初めてのような気がしない」
「ルイは俺の話をよく聞いてくれていたからな。写真も思い出したように眺めていたし」
マンションを出た後、途中立ち寄った喫茶店で遅めの朝食を取った。
それから更に数時間が過ぎて、とある通りの信号に引っかかった時だった。
「貴方はここに住んでいたんだな」
外の景色を眺めながら俺が言うと、彼は前髪を緩く掻き上げながら笑った。
「俺は記憶で話していたから、無意識に美化していたかもしれない。実際、がっかりさせてなきゃいいんだけど」
「してないよ。結構好きな空気だ、俺も」
小さく首を振って返すと、彼は嬉しそうに目元を緩ませた。
「そうだ、どこかリクエストはあるか? 憶えている範囲で、行ってみたいと思っていた場所とか」
信号が青になるまでにはまだ少し間があった。
そこで思いがけず向けられた問いに、俺は窓外に留めていた視線を彼へと転じる。
「リクエスト……」
呟いて、しばし思案する。何となく、信号が変わるまでに答えなければならないと少し焦った。
だからだろうか。ややして口をついたのは、
「学校――将人の通っていた、大学が見たい」
恐らくは容易に触れてはいけない場所だった。
「……あそこか」
彼の表情が僅かに曇る。俺は遅れてはっとした。
「あ、いや。別にどうしてもってわけじゃないんだ。……ただ、望める景色が素晴らしいと言っていたのを思い出したから」
ふと思い浮かんだ答えを口にしただけだから、本当に他意はなかった。
彼がこの街にいた際の――とりわけ大学でのエピソードは、出会って間もない頃からよく話に聞いていた。
例えば、彼の通っていた大学は結構な山の上にあって、おかげで徒歩で通うのは結構大変なのだと言うことや、構内にも坂が多いため、短距離ですら自転車に乗るのも一苦労だったと言うこと。しかし、恐らくはそんな立地条件であるからこそ、望める景色は本当に素晴らしいものだったと言うことも――。
俺はその話を聞くにつけ、後に彼がこぼした「いつか君に見せたい」と言う言葉を忘れられなくなっていた。似たような話題に及ぶたび、いつしか「いいな」「見てみたいな」と自然と返すようになっていた。
だけど、そこにやがて『セイ』と言う青年の思い出話が加わると、流石に俺の心境も変化する。それまでと同じように、簡単に「見たい」「行きたい」などとは言えなくなった。
彼の方はその後も相変わらずの態度だった。そんな俺の心境など、知る由も無いのだから当然と言えば当然だ。
でも少なくとも俺は、もうそのことについて自分から触れることは止めようと心に決めた。
(……迂闊だった)
なのに俺は、ここに来てそれに触れてしまった。
咄嗟とは言えまるで不用意に、何も考えず、ただ自分本位な願望を口にしてしまった。
余りにも浮かれすぎていたのだと、今頃になって自分を恥じた。心中を反映するように、無意識に視線が落ちる。俯いて、遣る瀬無さに奥歯を噛み締めた。
「――そうだな」
と、彼はぽつりと呟いて、再びアクセルを踏み込んだ。
(え……)
俺はゆっくり顔を上げた。信号は青に戻っていた。
彼はハンドルに片手を置いて、真っ直ぐ前方を見据えていた。その横顔を瞬きも忘れて注視する。
「見せたいって言ったのは俺の方だし……」
「いや、でも」
「本当は、俺もそろそろ見たいと思ってたんだ。丁度いい」
動揺を隠せない俺に、彼はふっと笑って見せる。彼特有とも言えるその笑みは、相手を安心させるに長けた極めて優しい笑顔(もの)だった。
それが愛想笑いではないと判る俺は、逆にその胸中が心配になったが、
「ルイと見たかったんだ」
俺が何を言うでもなくそう続けられると、もう黙って頷くより他はなかった。