それも一つの 08
(ええと、確かドリッパーはここに……)
昨夜眠りに落ちる際、彼は明日の朝は是非専門家(プロ)の入れたコーヒーが飲みたいと言った。
確かに俺は、いまでも彼と初めて出会ったカフェでバリスタとして働いている。一流だと自負するほどの自信はないが、それなりの知識と経験はある。
(お湯は……もう少し冷ました方がいいな)
とは言っても、彼が自宅に置いていた豆は一種類だけだし、抽出方法はペーパードリップだ。彼には以前、その場合どうすればより美味しく入れられるかの手法を教えたことがあったから、そうなると俺が入れても彼が入れても大差ないだろうとも思う。
しかし彼は、頑なに俺の入れたコーヒーが飲みたいと言って、やがて「わかった」と承知した俺に、心底満足そうに笑みを深めたのだった。
「……ルイ?」
(向こうの家でなら、もっと貴方好みのブレンド(もの)が入れてあげられたのに)
そんなことを考えていたからだろうか。次いで彼が言った言葉が、自分に向けられたものだと理解するのに少し遅れた。
先んじて、通話を終えた彼が携帯を閉じた音にも気付かなかった。
「え……」
「だから、結局君の休みはいつまでなのか訊いているんだよ。まさか教えてくれないつもりじゃないだろ?」
顔を上げると、彼は最後のボタンを留めながら壁に立て掛けられた姿見の前に立っていた。軽く整えるように髪に指を通しながら、時折ちらと俺の方を見る。刹那視線がかち合うと、その口元がふっと笑みに緩んだ。
(て言うか……予定は早速今日からなのか?)
着々と身支度を整えていく彼の様子に、やはりその懸念が晴れない俺は、
「休みは一週間」
抑揚乏しい声で短く返した。
(は……)
無意識に溜息が漏れて、視線が落ちる。その一方で、用意し終えた二つのカップを、目の前のカウンターテーブルに並べておいた。
「やっぱり俺が入れるのとは違うな」
と、そんな言葉と共に眼前にふと影が落ちる。見ればいつのまにか間近に立っていた彼が、ソーサーの一方に早速手を伸ばしていた。
「俺もちゃんと、教わった通りにやっていたつもりなんだけどな」
改めて香りを確認するよう鼻先に軽く掲げ、もう一方のソーサーもあっさり手に取る。そのまま踵を返し、彼はリビングのテーブルへとそれを運んだ。
「あ……」
その姿に少し焦り、俺は慌ててキッチンを出る。「別に先に座っててくれれば良かったのに」と、口をつきかけた言葉を咄嗟に飲み込む。
その背に追いついた途端、彼が急に振り返ったからだ。
「これを飲んだら、とりあえず外に行こう。言ったことが嘘じゃないと分かってもらいたいしな」
「……え?」
俺は思わず問い返す。
「出かけるって、俺と?」
俺はひとつ瞬いて、思わず彼を凝視した。
どこか唖然とした俺の表情(かお)を見た彼は、こっちこそ心外だとばかりに僅かに目を瞠る。遅れて笑い出し、
「他に誰がいるんだ」
次いでさらりと切り返されれば、今度は俺の方が言葉に詰まった。
彼は戸惑う俺をソファへと促し、俺が座ればその肩を、軽い調子でぽんと叩く。
「せっかく君が来ているのに、放っておくはずないだろう」
それとも、俺は君の中でそこまで薄情な男になっているのか。
わざとらしく言い迫った後、彼は戯れに片目を閉じて見せた。
その様にますます俺は閉口する。
「言ったじゃないか。君が来てくれて嬉しいって」
「あれは、だって……社交辞令」
「それも否定したはずだよ」
穏やかな口調で続けながら、彼は静かに俺の隣へと腰を下ろした。
そして改めてテーブルに手を伸ばすと、間もなく温かなカップに長い指が触れた。艶めく白磁のカーブが口元に引き寄せられて、ゆっくりと傾いていくその縁から、薄い唇の隙間へと黒い液体が吸い込まれて行く。ややして、彼の喉元が小さく上下した。
(そう、なのか……)
気がつくと、それだけの仕草にすら目を奪われかけていて、俺は気を散らすように頭を振った。
何とか平常心を取り戻したくて、自分もカップを手にとった。鼻先を擽る身近な香りに心が安らいでいく。喉奥を伝い落ちる適度な温度に、知らず安堵の息が漏れた。
うるさいばかりに高鳴っていた鼓動が落ち着くまでにはいま少し時間を要したが、それでも目端に灯った熱を誤魔化すことだけは、どうにか叶ったような気もする。