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それも一つの 02

 初めて出会った場所は、そこからそう遠くない繁華街に軒を連ねる小さなカフェだった。日付は偶然にも俺の誕生日の翌日――十月三十一日。目が合うなり、「ハッピーハロウィン」と微笑んだ彼の表情(かお)を、俺はいまでも忘れられない。
 俺はその店で働くバリスタだった。そして彼は俺の入れるコーヒーをとても気に入ってくれた。嫌でも目をひくその風貌――後に「これからは翻訳家でなく、一応役者と名乗るべきかな」と聞けば多少は納得もいったが――に俺は半ば一目惚れに近く、その後たまたま立ち寄ったバーで彼の姿を見つけた時には、大袈裟でなく運命だろうかと心が震えた。
 それからはずっと密やかに想い続けた。気持ちは強くなっていくばかりだった。しかし、俺はそれをなかなか態度には出せない。将人がバイだと言うことは見ていればすぐに察しがついたが、だからと言って想いが通じるかどうかはまた別の話だ。俺だってはっきり振られるのは怖かった。
 そんな中、ルームシェアの話を持ちかけてきたのは彼の方だった。
 俺は当然のように二つ返事でその話を受けた。それが単なる親しい友人としての申し出だとしても、その時の俺には何の抵抗もなかった。寧ろ嬉しくて堪らなかった。
 もともと伝えられるかどうかも知れない想いだ。そんな気持ちの行方など、これからゆっくり考えればいい。俺は未来(さき)より現在(いま)を選んだ。
 ただ無条件に彼の傍にいられる幸福――その時はそれが全てだった。
 しかし、そうして半年ほどが過ぎた頃、状況は一変する。飲み過ぎを自覚する彼の口から、とある名前が滑り出たのだ。
 彼は珍しく酩酊した意識の中で、戯れに俺の手をとった。そして酷くせつなげな笑みを浮かべて、ぽつりと呟いた。
 ――『セイ』と。
 その瞬間、ああ、彼には既に特別な相手がいたのだと、俺のこの想いは届かないのだと嫌でも思い知った。
 挙句彼は、恐らくは俺を『セイ』だと錯覚したまま、掴んでいた手を引いた。引き寄せて、距離が近づけば腕を広げ、柔らかく俺の身を抱き締めた。
 そこに込められているのは、いつものような友愛ではない。それを遥かに超えたもの。いつかはそんな日が来ればいいと思っていた。でもいまはそれを純粋には喜べない。何故なら彼は俺に触れながら、俺を想っているわけではないからだ。
 それでも、俺はその手を振り解けなかった。そのまま床に押し倒されても、大人しく彼のしたいようにさせるだけだった。自分が『セイ』の代わりに抱かれようとしていることは解かっていた。こんなのは間違っていると思っていた。しかし、終にはそれでもいいと思ってしまったのだ。
 そうすることで少しでも彼を慰めることができるなら。そして同時に、俺もそれほど彼の熱を欲しいと思えばこそ――。
 しかし朝になってみると、将人はその夜のことを一切覚えていなかった。
 かと言って、互いに何も身につけず、同じベッドの上にいれば何があったかは明らかで、それに気付いた彼は言葉もないとひたすら謝罪を繰り返した。
 俺はそれを笑顔で許した。特に無理をしていたわけでなく、本当に自然に笑えたのだ。彼に対する怒りも特にはなかった。だいたい予想できていたのかもしれない。
 だが彼の方はそれでは納得がいかないようで、なかなか自分で自分を許そうとしない。見かねた俺は、それならと一つの条件を出した。
「そこまで言うなら、昨夜の話の続きを聞かせて欲しい」
 俺はその詳細を、正直聞きたいと思っていた反面、永遠に聞きたくないとも思っていた。でも、
(言えば彼も少しは楽になるかもしれない)
 そこに辿り着くと、結局前者を選んでいた。
 俺の言葉に、彼は僅かな逡巡の間を見せた。その反応に、一応俺は「無理にとは言わない」と続けようとしたが、それを制するように彼は緩く首を縦に振って、静かに言葉を紡ぎ始めた。
 一旦話し始めると、後は堰を切ったようだった。まるで抱えきれなくなった物を一気に吐き出してしまうかのように、彼はアメリカに戻る前の話――要するに大学時代に関係していた『セイ』と言う青年の話――を全て包み隠さず教えてくれた。
 知ってみれば、その相手は彼の配偶者でも婚約者でもなく、恋人でも、あまつさえ友人ですらない存在だった。
 そのくせ複雑で難解な印象を受けるのは、彼らが恐らくは両想いであったにもかかわらず、結局身体だけの関係に終わった所為だ。
 将人は自分が成就を願わなかったのが元凶だと言った。仮に相手に直接気持ちを伝えられていたとしても、やはり断っていただろうと自嘲気味に笑った。そんな俺には、元より後悔する資格すらないのだと。
 未練が残るのも当然だと思った。寧ろそんな経緯で、あっさり忘れられる方が不思議だ。
 話を終えた彼が、幾分気が晴れたように笑ってくれたのがせめてもの救いだった。
(何か、俺にできることはないのか……)
 しかし俺はそれだけに終われなかった。
 せめて少しでも紛らわせてあげられたら――そう思った俺がとった行動は、
(代わりでもいい)
 その後もずっと、彼と身体を重ね続けることだった。
 夢や思い出の中の存在にはまず勝てない。それも本人がそれを忘れたいと望んでいないのに、どうして俺の立ち入る隙があるだろう。そう、痛いほど身に沁みていながらも。
 もちろん彼はできないと最初は首を横に振った。だけど、俺はそれでいいと言った。それがいいと自分から望んだ。
 きっかけは、確かにそれで彼の慰めになればと願ったからだ。だが、今にして思えば所詮俺はそれにかこつけて自分の欲求を通したに過ぎなかった。
 基本来るものは拒まない彼の性格に付け込んで、そうして俺が手に入れたもの――。
 それは擬似的な『セイ』の立ち位置だった。



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2010.03.12