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夏風 11

 過去のことなど思い出したくないと思いながら、ふとしたことで頭を過ぎることがある。
 昔の俺は、いまとは比べ物にならないくらい身体を重ねることへの欲求が強かった。
 一度そう言う行為に及べば、殆ど時間の許す限り。意識の保てる限界まで、欲求は止まないのが常だった。
 もちろん、それは不特定多数の相手をすると言う意味でなく、その時そう言う関係にあった特定の相手に対しての話だ。
 まぁ、それにしたって恋人同士だったのかと言われれば微妙なところではあったから、それが原因で半ば自棄になっていたとも言えるけど。
 それがいまや、たった一度きりで十分満足できることがある。
 しかも下手をしたらそれが月に一度だったとしても、満たされていると感じることがあった。それこそ、どうしてこんなにと思うほど。
「……今更何やってんだよ」
 二度目の絶頂を迎え、軽く意識を飛ばしていたらしい彼は、正気に戻るなりもたもたと床の布団を引っ張り上げた。
 そしてまるで俺から隠れるみたいに、頭までそれを被ると、
「恥ずかしいって言っただろ……」
 今になってどれだけの羞恥を感じているのか、すっかり潜り込んだままもごもごと言った。
 俺は隣で上体だけ僅かに起こし、浅く座るような格好で煙草を咥えていたが、火を点けようと構えた手をぴたりと止めて、
「お前なぁ、もう何回俺とヤったと思ってんの」
 思わず堪え笑いに肩を揺らす。
 すると彼は、ちらと布団から目より上だけを覗かせて、
「だってお前…する側ならともかく、される側なんてお前とこうなるまで想像もしてなかったんだからな」
 そんな思いがけない言葉を口にする。
 口元は相変わらず布団に覆われていたので、声は籠ったままだったけど。それでもその科白ははっきり聞き取れた。
「……する側…」
 火を点けてなかったのが幸いだった。
 呟くと同時、俺の口元からぽとりと煙草が落下する。
「な、そ…そんなに驚くことじゃないだろ。俺だって普通の……」
「――お前……まさか逆がいいとか言わねぇよな」
 彼が続けようとした言葉なんてもう耳には届かない。
 俺は問いかけながらも断定口調で返しつつ、徐に彼との距離を削る。
 シーツの上に突いた手が、先刻落とした煙草を踏み付ける形になっても、それすら今はどうでもいい。
 もしそれに彼が「逆がいい」とでも言おうものならと思うと、血の気が引くのを止められない。
 正直言えば、俺は河原以外とは逆の立場――要は抱かれる側――の方が多かった。それもあって、そう言う意味での恐怖心は別にない。
 本当に、心底彼がそれを望むなら、叶えてやりたいと言う気持ちもある。
「暮科……?」
 だけどやっぱり、河原が俺をどうこうするなんて想像できない。
 それこそ木崎と寝る自分が想像できないのと同じくらい、有り得ないことだと思ってしまう。
 だからと言って、仮に抱きたい欲求を他の誰かに向けられたら――そしてそれが発覚してしまったら。果たして俺は、それをちゃんと許せるだろうか。
(いや……無理だろ)
 別れることは無いにしても。表面上は、どんなに許すと言えたって。
 きっとずっと、記憶からは消すことはできない。
「全っ然、聞いてねーな……。おい、暮科って」
 何度名を呼ばれても耳には入らない。
 それどころか、自分から言及して距離を詰めたくせ、急に黙り込んでしまった俺に、
「――った」
 河原はいきなり手を挙げた。
 額をびし、と叩かれて、俺は漸く我に返る。
「な……、んだよ。いてーな」
「なんだよじゃねーよ。なんで無視なんだよ、俺のこと」
「無視? 俺が? ……お前を?」
 そんなバカな、と言いかけて、慌ててそれを飲み込んだ。
 彼は下から俺の顔を上目遣いに覗き込み、
「誰もそんなことは言ってない」
 今度は口元も布団から出して、改めてはっきりそう言った。
「ていうか、もし逆にお前が俺に抱かれたいと思うなら、……どうにか抱けるようにはなりたいけど」
「いやいや、それはいい。無理するな。いまの状態だけでもお前いっぱいいっぱいだろうし、俺としては現状で十分満足してる」
 彼の言葉に、徐々に平静を取り戻した俺は、余裕ぶって口元に手を寄せる。もちろん、咥えていた煙草を掴むつもりで。
 が、当たり前だがそこに目当ての物は無い。
「そこはほら、気持ちでフォロー……できそうな気がしないでもない」
 それに気付いたと同時、横から彼が手を伸ばした。
 その指先には先刻俺が落とした煙草が添えられている。
 彼はそのまま俺の口にそれを咥えさせると、何も言わずごろりと仰向けに寝転がった。
「………」
 穴があったら入りたいとはよく言った物――。
 俺はいままさにそんな心境で、余りの気恥ずかしさに礼の一つも言えなかった。
 彼の口から飛び出る言葉にはいちいち驚かされもするが、それでもさっきよりは随分冷静になったつもりでいたのに。そんなのはまるで独りよがりの思い込みだったというわけか……。
「……あー、そういやお前、木崎に言われた言葉が原因で、いろいろ考えさせられたっつったよな」
「ん? んー、うん。まぁ……」
「つか、そもそも何でそう言う話になったんだよ」
 暫しの時間を自己嫌悪に費やして。やっとのことで火を点けるに至った煙草を深く吸い込み、細い紫煙を吐き出しながら俺は横目に彼を見る。
 煙草は多少よれてはいたが、幸い折れてはいなかった。
「それは……その、木崎が……」
「木崎が?」
 片手間にサイドテーブルに置いていた灰皿を引き寄せながら、俺は続くはずの言葉を待つ。
 が、暫く経っても、河原はなかなか口を割ろうとしなかった。



continue...
2010.01.02