夏風 02
「夏風邪は」と木崎が言った通り、季節は夏――七月も既に後半に差し掛かかっていた。
仕事を体調を理由に休んだのは、本当に久々だった。
普段なら多少無理をしてでも出勤してしまう方だったが、昨日の早退といい今日の欠勤といい、それが上司直々の命令となれば話は別だ。
まぁ、確かに職場が職場なこともあるし、このまま仕事に出ても周囲に迷惑をかけるだけだろう。
それにたまには予定外の休日をゆっくり過ごすのもいいかもしれない。それが例え安静に寝ているだけの退屈な時間であっても。
そう思った俺は、本当に大人しく一日ベッドの上で過ごしていた。
眠りもいつになく深かった。相変わらず熱は下がりきっていなかったが、それでも今朝よりは幾分身体が軽くなった気がする。
昼過ぎに一度目を覚まし、スポーツドリンクと薬を飲んでまた眠った。
そして夕方。俺は再び目を覚ます。枕元で携帯が鳴ったからだ。
それが先刻の、木崎からの用件の見えない電話だった。
(つーか、マジ何で木崎……?)
正直な話、河原が来るならまだ解る。
河原は同じマンションに住んでいるし、何より俺と彼とは恋人同士――であるはずの間柄なんだから。
だけど、昨夜だって河原は来なかった。
同じ遅番で出勤していて、俺が早退したことは知っているはずなのに。
それでも彼のことだから、逆に気を遣って来なかったのかもしれないと納得していたつもりだった。
顔が見たいなら顔が見たいで、それをちゃんと言わない俺も俺だと思っていたし――。
(いや、でもそれって普通のことじゃねーのか)
お互いを好きだと思っているなら、それくらいは言わなくても通じて当たり前と言うか。
「お待たせ。調子はどうなの? あ、これ差し入れね」
暫く考え込んでいると、危うくまた妙な深みに嵌りそうになっていた。
あれこれ想像して独りで悩むくらいなら、とりあえず直接言葉を交わそうと、そう決めたはずだったのに。
「……元気ないなぁ。そんなまだ熱高いの?」
やがてそんな思考を遮るようにインターホンが鳴り、のろのろと玄関に向かうと、そこには確かに木崎が立っていた。
彼は手に持っていた紙袋を俺へと差し出し、その傍ら、他方の手を俺の額へと触れさせた。
その仕草は余りにも自然で、遅れて何をされたのか気づいた俺は、
(…これか)
と今更に思う。
なるほど、これは確かに人によってはドキッとしてしまうかもしれない。
不意に言葉も無く詰められる距離感は、場合によっては誤解も生むだろう。
元々さりげない気遣いが出来る男ではあるのだし、そうなると彼に惚れてしまうヤツの気持ちも解らなくはない。
まぁ、もちろん木崎のことだから、それを素でやっている時と計算でやっている時があるのだろうが、少なくとも今は確信犯では無さそうだ。
だからと言って、俺が木崎に対してそう言う意味で惹かれることはまず無いが。
「あー、言っとくけど河原は遅番だからね」
「言われなくても知ってる」
「その割には不満そうだけど」
「うるせぇな。差し入れはわかったから、もうとっとと帰れ。どうせ透が下で待ってんだろ」
俺は半歩下がることで彼の手から逃れ、浅い溜息をひとつ吐いた。
すると宙に残された手を暫し掲げたまま、木崎はぱちりと瞬いて、
「まぁうん、気持ちは解るよ。普通なら河原がやることだよね、こう言うことって」
ややして下ろした腕を軽く組み、妙にしみじみと言い始める。
その態度の変わり様と言い様は、ともすれば河原を責めているようで、俺は内心少し焦った。
「いや…だからアイツは仕事中だろ。お前だってたったいま自分でそう言ったじゃねーか」
だって俺は、もちろんそう言う意味で言ったわけじゃない。
こんなのは単なる俺の我侭で、現実としてどうしようもないことはちゃんと解っているのだ。
「別に、そこまでしろとは思ってねぇよ」
溜息混じりに視線を落とす木崎の仕草に、俺は言い訳するように言葉を重ねる。
と、ややして木崎の肩が微かに震え出し、
(ア……?)
怪訝に眉を潜めた俺の前で、彼は一気に破顔した。
「わーかってるよ。いまのは冗談、ただ言ってみただけ。だって余りにも素直じゃないんだもん、暮科が」
「………」
一瞬呆気に取られ、半ば諦めたような心地で閉口していると、彼は揶(から)揄(か)うように小さく肩を竦めた。後、不意にくるりと踵を返す。
「まぁいいや。暮科の言う通り、透君下で待たせてるし。俺、行くね」
「あぁ、…まぁ、どうも。助かったよ」
俺は気怠げに傍らの壁に肩で凭れながら、彼の背中に向かって力無く片手を上げた。
するとドアを開けたまま肩越しに彼は振り返り、今度は先刻とは違う柔らかな笑みを俺に向ける。
「それ、ホントは河原から託っ(ことづかっ)たヤツだから。俺は単なるその代理。とりあえず、それでも食ってゆっくり寝てろ、だって。…じゃあね!」
直後、木崎はそれだけ言うと、早々に部屋を出て行った。
対する俺の反応など、やはり一切待つこともなく。