17.抜けない棘
【Side:崎坂智也】
「本……」
反芻するように呟きながら、俺もふっと視線を外す。
わずかに目を細め、一歩距離を空け――再びカウンターテーブルの端に、腰で凭《もた》れるようにしながら口元に手を当てる。
この人の口から出た『本』というキーワードに、また胸を刺された心地がした。
鈴木さんの憶測が当たっているかどうかは、この際どっちでも良かった。というか、まぁおそらく当たってはいるのだろう。たしかに俺は、ここの本を何度か直して返却したことがある。その修繕方法を、いくらか知っていたからだ。
たまたまその過程を成田に見られた時、「器用だな」と言われたけれど、それは、過日に人からちゃんと教わっていたからできたことだった。
教えてくれたのは、あの人だった。俺に本を読む楽しさを教えてくれた、かつての恋人。俺の中に、今でもまるで癒えない傷を――きっと一生消えない傷を残したあの人が、丁寧に教えてくれたのだ。
高校に上がり、つきあい始めて間もない頃、俺が学校の図書館で借りてきた本が、破れているとこぼしたのがきっかけだった。
思えばあの人も、鈴木さんと同じ専攻をしていたのかもしれない。理系も文系も何でもできる人だったけど、とにかく本が好きで、本に詳しくて、暇さえあれば図書館に足を運ぶような人だったし。司書の資格がどうのという話までは聞いたことがなかったから、それ以上のことは分からないけれど。
「崎、坂……くん?」
気がつくと、どうにか身なりを整え、眼鏡をかけ直した鈴木さんが、心配そうに俺を見ていた。
「……なんだよ」
「あの、これ」
差し出されたのは、なぜかハンカチだった。
鈴木さんが、無言で自分の頬に触れる。人差し指で、指し示すみたいに。
「!」
その瞬間、俺は咄嗟に片手で顔を覆った。そうしながら、逃げるように顔を背けた。
(なんで、俺……)
手のひらに濡れた感触が伝わる。いつのまにか、目の際から涙がこぼれ落ちていた。
「ばっかじゃねぇの……?」
俯いたまま、吐き捨てるように言って、差し出されていたハンカチを押し返す。
俺は再びカウンターを跨《また》ぐように飛び越え、そのまま鈴木さんに背中を向けた。
「ま、待って、崎坂くん!」
居たたまれなさすぎて、すぐさまその場を去ろうとしたけれど、それを鈴木さんが慌てて阻《はば》む。
物理的に、服の背中をひっぱられ、踏み出そうとした足が軽く宙を掻いた。
無意識に舌打ちを漏らし、少しだけ振り返ると、鈴木さんはカウンターの上に腹ばいになるようにして俺の服を掴んでいた。その拍子にずれたのだろう眼鏡の位置を戻しながら、必死に唇を開閉させて、
「僕、知りたい……っ」
いっそう強く服を掴まれる。
その手をふりほどくのは簡単なはずなのに、なぜかそれもできなくて、俺は辛うじて顔を逸らしただけで、そのまま立ち尽くすしかなかった。
「知りたいんだ。崎坂くんのこと、もっと……!」
言い募られると、ますます涙がこみ上げてきた。どうしてこんなに泣きたくなるのか、自分でも全然分からなかった。分からなかったけど、やっぱりこの人はどこかあの人に似ているのだと、改めて意識させられたのは確かだった。
鈴木さんに背を向けたまま、俺はまた片手で顔を覆った。
あの人に似ている鈴木さんに酷いことをして、それで何かが晴らせるとでも思っていたんだろうか。
いまでも許せないあの人を、けれども嫌いになれないあの人を、俺を好きだと言った鈴木さんに重ねて、何をしようとしていたんだろう。
「ほんと、ばかじゃねぇの……」
そんな風に言ってもらう資格なんてないのに。
自分が何されたか分かってんのかよ。
涙は止めどなくあふれ、ぽたりぽたりと落ちるしずくが、絨毯に小さな染みを増やす。
その背中に、不意に温かな体温を感じた。
by 雪ひろと
- 2019/08/04 (Sun)
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