11...知れない真意
【Side:崎坂智也】
意外だった。「麻衣子」と、彼が誰かを呼び捨てにしたことが。
もちろんそれが本当に意外なことなのかどうかは分からない。俺は言うほど彼のことを知らないんだから。
でも、あの人と傍にいた女の人が、少なくとも俺と彼との関係よりも親密であることはよく解った。
(何だよ、この空気)
そう思ったら、余計に苛立ちが増した。
「いい人いるんじゃないですか」なんて、言ってしまったのはきっとその所為だ。
理由はよく解らない。でも、何だかあの日――カフェの一件――からこっち、鈴木さんを見ていると妙に苛々して仕方無かった。
「その時間にまた来ます」
連絡先を求められたけど、結局その場で教えることはしなかった。
最悪、どうしても知りたければ学校で調べることもできるだろう。
あの人がそこまでするようには思えないけど。
「十九時でしょ」
俺は確認の意を込めてそれだけ残すと、真っ直ぐ図書館を後にした。
次に借りる予定だった本はもう決めていたのに。
それを忘れていたわけでもないのに。
そもそも借りる予定だった一冊は、予約までしていたくらいだ。
下手をしたら、あの人にも知られているかもしれない。
でも、とにかくその時の俺はできるだけ早くその場から立ち去ってしまいたかった。
理由は、自分の言った科白に嫌悪したことも一理――。
十九時前に再び戻ってきた俺は、眼前の図書館の建物を一度見上げ、溜息を一つ吐いてからドアを潜った。
閉館に合わせて照明を控えたのか、季節柄まだそれなりの明度を保っている外に比べ、館内は思ったよりも薄暗い。
俺は閑散とした空気の中に微かな靴音を響かせ、エレベーターに乗り込んだ。
(…まだ、仕事中か……?)
七階だけはほぼ全面ガラス張りと言う作りなので、階下に比べると幾分明るい。
俺は僅かに目を細めながら、正面に位置するカウンターを見遣った。
背後でエレベーターのドアが閉まる音がする。
が、特に続く存在はないらしく、それ以上の機械音は聞こえてこなかった。
まぁ、想定内と言えば想定内だ。ここまで来る際も、構内で見かけた人影と言えばサークル活動に勤しむ限られた生徒のみ――。
「……あ、ごめん。もう終わるから」
フロアには消音のための絨毯が敷き詰めてあり、普通に歩く分にはほとんど足音がしない。
その割に、彼は俺がカウンター前で足を止めるより先に慌てて顔を上げた。
エレベーターの音で気づいたのか、普通に人の気配を察したのか。或いは時間を気にしていたのか。
どちらにしても、その反応は幾分予想に反していて、
「……別にいいですよ。ここで待たせて貰いますから」
俺は一瞬逡巡しながらも、素っ気ない口調でそう返した。
「こ、ここで……?」
「ダメなんですか」
「い、いや……ダメじゃない、けど」
「じゃあいいでしょ」
ここで。そう言って俺が足を止めたのは、カウンターで作業する彼の真正面。
彼がどんな作業をしてるのかは知らないし、別にそれに興味があってのことじゃない。
ただ、そうすることで彼が困るのではないかと思ったから。
「大丈夫ですよ。大人しくしてます」
大人しく。
わざとらしい程に静かな声音で続け、俺は言葉通り何をするでもなく彼のすぐ傍に立っていた。
カウンターテーブルに半ば腰を預けるような体勢で、それ以上は無言のまま。
手持無沙汰に煙草を吸いたくなったけど、流石に場所が場所だけにそれも憚られ、俺は込み上げた欠伸をやんわり噛み殺した。
「……わ、」
と、不意に傍らからバサリと派手な音がする。それに混じって微かな声が響き、振り返ると、
「……ご、ごめん。終わったと思ったら手が滑って……」
慌てて床に身を屈め、資料だか何だかを拾い集める鈴木さんの姿が目に入る。
(こんなで仕事ちゃんとできてんの? この人)
まさか俺の目の前でだけ、なんてことは言わないだろ。
俺はカフェで彼に言われた言葉を思い出し、自嘲気味に喉奥で小さく笑った。
「あの……これ、片付けたらすぐ出られるから」
俺が何も言わないことを不安に思ったのか、手の中の資料を抱え直しながら彼がおずおずと口を開く。
俺はその真意を探るように眇めた眼差しで彼を見て、後、
「え、え……っ」
唐突に腕を伸ばし、彼の胸倉を片手で掴んだ。
当然、彼は驚いて声を上げる。
その表情は当惑に揺れ、せっかく集めたばかりの資料も、再び手からこぼれ落ちそうになっていた。
だからと言って俺は手を緩めない。
そのまま彼を引き寄せて、一方的に唇を重ねる。彼の意向などお構いなしに。
「っん、ぅ……!」
唇の合わせを強引に割って、舌先を滑り込ませる。
何故だか解らないが、噛まれるようなことはないと確信していた。
焦らす風な仕草で歯列を辿り、逃げる舌の根をねっとりと舐め上げる。唾液を嚥下する間も、息吐く間も与えないとばかりに絡めた舌を吸い上げて、その度静謐な空気を敢えて揺るがすように水音を響かせた。
一瞬瞠られた双眸が、次にはきつく閉じられる。
その全てが間近に映り、途端。俺の中で加虐心のような物がゆっくりと頭を擡げた。
continue...
by 雪ひろと
- 2008/08/26 (Tue)
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