10...狼狽
【Side:鈴木孝明】
不意に耳元で囁かれた言葉の真意がつかめずに、僕は一瞬動きを止めた。
そればかりか、手にしていた本を全て床にぶちまけてしまい、静謐とした館内で注目を集めてしまう。
正直言って、崎坂くんがエレベーターを降りたときから僕の心臓は早鐘のように打ち続けていた。でも、今のこれとは比にならない。
そんな僕を不審に思ったのか、書庫の奥から駆け出してきた麻衣子が傍らに立った。
病み上がりで――というか寧ろまだ時折点滴を要する身体で――依然挙動不審さが拭えない僕を、麻衣子はとても心配してくれていた。それでだろう。このところ、彼女は僕の近くにいることが多かった。
「孝明……?」
落とした本を拾おうともせず呆然と立ち尽くす僕に、麻衣子が声を掛けてくる。その呼びかけも、僕を常態に戻すには至らなくて――。
そんな僕たちの様子を、崎坂くんが目を細めて見詰めている。
「ちょっと……あなた……孝明に何したの?」
と、不意にそんな声が聞こえてきて……僕はハッと我に返った。
「え、あ……ま、麻衣子……?」
別に何をされたというわけではない。
いや、全く何もされていないというには語弊があるけれど……別に身体的苦痛を与えられたとか、そういうのではないわけで――。
今にも崎坂くんに食って掛かりそうな勢いの麻衣子に、僕はオロオロさせられる。
「……別に? 俺はただ本を返却しに来ただけですよ?」
しかしそんな麻衣子の剣幕に、崎坂くんは微塵も動じた様子なくそう答えると
「鈴木センパイ、何だかんだ言っていい人、いるんじゃないですか」
どこか冷めた声音でそう言い放った。
「ち、違っ……!」
その、崎坂くんの表情(かお)を見ているのが居た堪れなくて――。
誤解を解こうと「僕が好きなのはキミだけだ」。思わずそう告げようとして、僕は言葉に詰まった。
(――そんなこと言ったらこの前の二の舞だ)
麻衣子もいる。そうして……カウンターでのただならぬ雰囲気に、そこかしこから集まる視線を浴びてのこの状況で、そんな馬鹿なことを言ってしまったら……。
こういうときに臨機応変に対応できない自分が物凄くもどかしいと感じてしまう。
「孝明?」
そんな僕を案じて麻衣子がそっと手を伸ばしてきた。
「……さ、触らないで」
その気配に恐る恐るそう切り出すと、麻衣子が驚いた顔をして伸ばしかけていた手を所在無げに止める。
付き合っていた時は勿論のこと、別れた後にだって彼女の手を拒んだことはなかった。
今までは拒むだけの理由を思いつかなかったから。
でも、今は違う。
「ごめん……」
初めての拒絶に硬直したままの麻衣子にかろうじてそれだけを告げると、僕は崎坂くんに向き直った。
そうしてから一生懸命自分を鼓舞して彼の目を見詰めると
「十九時までには終われます。……もし迷惑じゃなかったら連絡先とか……教えてもらえますか?」
何とかそれだけ告げて彼の返事を待った。
continue...
by 鷹槻れん
- 2008/07/17 (Thu)
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