08...失意
【Side:鈴木孝明】
今日ここへ立ってから四度目になる苦情へ頭を下げ、とりあえず事なきを得たことに我知らず溜め息を落とした。――と、同時に声を掛けられて、僕は思わずビクリとする。
「どうしたの? さっきからミスしてばかりじゃない」
耳慣れたその声に視線を上げると、カウンター越しに麻衣子が立っていた。
今日は彼女も一緒に司書当番の日だったので、こうして図書館で顔を合わせることは想定の範囲内だった。
でも、まさかこんな最悪のタイミングで目の前に現れるだなんて思ってもみなくて。
「……」
彼女の姿を視界に収めてみたものの、口を開くのが億劫で、僕はそのまま無言で視線を落とした。
「孝明、何か悩み事があるんでしょう?」
でも、さすが麻衣子というべきか。目を逸らしたぐらいで彼女の質問から逃れられるはずもなく――。
「いや、別に何でもないんだ。気にし……」
「気にするなって言われても、その顔色じゃ無理よ」
なるべく平常心を装って告げたはずの言葉も、半ばで遮られてしまう。
オマケに気にしないのは無理だ、とはっきり告げられて、僕は二の句が継げなくなった。
第一、顔色が目に見えて冴えないことは自分自身が一番心得ていた。
それを、気のせいだと言い聞かせて日々を送っていたのだ。
「……ちょ、ちょっと体調が悪いだけ。ほ、ホントにそれだけ、だから……」
しどろもどろにそう返すと、麻衣子のひんやりと冷たい手が、長く伸びた前髪を掻き分けるようにして額に触れてきた。
「まぁ、確かに熱はないみたいだけど……」
そこで、うつむいたままの僕の顔を両頬を挟んで上向かせると、
「今日は裏方に回る?」
僕がずっと言いたくて……でもみんなに対する遠慮から提案出来なかったことを言ってくれた。
「……いいの?」
僕以外の人間が受付に立った場合の不便さは麻衣子だって承知しているはずだ。
僕と、ここの管理者である図書館長以外、館内の資料の的確なレファレンスを提供出来る人間はいないのだから。
「今の孝明じゃ、私が立ってるのと大差ないもの」
でも、間髪入れずにアッサリと告げられた言葉に、僕は思わず苦笑する。
そう、確かに麻衣子の言う通りだ。
ここに立って、たった一時間足らずの間にあんなにミスを連発していたんじゃ、ある意味他の司書以下。
「そう、だね……」
当り前のことに今更気付いてショックを受け、力なくそう返すと両頬に添えられたままだった麻衣子の手が、僕の頬を軽く数回ぺちぺちと叩いた。
「調子が悪い時は仕方ないわよ。そんなに自分を責めないの」
放っておいたら頭まで撫でかねない勢いで優しいお姉さん面をする麻衣子の態度に、僕は情けなくも涙が溢れてしまいそうになる。
「ありがと……」
かろうじてそれだけを言うと、僕はこぼれそうな涙を見られずに済むよういそいそと麻衣子に背を向けた。
(――で、結局寝込んでれば意味ないか……)
やけに白々と明るい病室の天井を見つめながら、我知らず自嘲する。
あの後も麻衣子のフォローを受けながら何とか日々を送っていた僕だったんだけど……。
キャンパスのどこで、いつバッタリ崎坂君に出会ってしまうかも知れないと言う重圧に、食べ物が喉を通らなくなってしまった。
夏休みだったので別に頑張って大学に通う必要もなかったんだけど、それでも図書館司書の仕事をこなさねば、と意地を張りすぎたらしい。
昼過ぎから頑張っていた蔵書整理が終わってすぐ、情けなくも倒れてしまった僕は、学校からの呼び出しで駆けつけた母によって馴染みの病院へ運ばれていた。
(気持ち悪い、って思われてるよね、きっと……)
同性相手にいきなりあんなことを言われて、そう思わない人のほうが珍しいだろう。
実際自分が他の男友達などからそんなことを言われたことを考えると、僕は思わずゾッとした。ましてや崎坂くんと僕は図書館で時折顔を合わせる程度といった単なる顔見知りで――。
精神的なものからきたにしてはいささか高すぎる熱にぼんやりと霞む頭でそう考えると、眼尻にじんわり涙が溜まった。
それが高熱によるものなのか、それとも気持ちの波によるものなのか、僕自身にも分からない。
「孝明、大丈夫なの? 何か悩み事とかあるんならお母さんに話してちょうだいね?」
小さい頃から些細なことでしょっちゅう体調を崩す僕を、母は物凄く心配する。
「ん。大丈夫だから」
それなのに僕はそんな彼女に嘘をつかなければならない自分が嫌になった。
(でも……さすがにホントの理由なんて言えない……)
素直に言えば、余計衝撃を与えてしまうだろう。
息子が同性相手に愛の告白をして……ましてやフラれたショックで寝込んでしまっているなんて。
栄養剤の点滴を受けながら横たわる僕を、母が心配顔で覗き込む。
涙の溜まった瞳を見られるのが嫌で、僕は思わず視線を窓のほうへ転じた。
「大分日が傾いたね……」
冷房の効いた室内には、今も残っているであろう、太陽に熱された外の暑さは伝わってこない。
それでもつい数時間前まで、カーテン越しでも目を射りそうなくらい強かった光が弱まったことで、太陽の傾きぐらいは想像できた。
「ええ、でもまだまだ外は暑いわよ」
だから帰るのはもうちょっとしっかり日が落ちてからにしましょうね、と点滴を見詰めながら母が呟く。
この残量なら中身が落ちきるまであと一時間はかかりそうだ。
しょっちゅうお世話になっているから、薬液の落ち具合と量を見ただけで大体の終了時間が予測出来てしまう。
それも情けない話だけど、今日はその能力(?)が少しだけ有難いと思ってしまった。
「母さん、まだこれ、一時間ぐらいかかりそうだし……一旦家に帰ってきたら?」
ずっと僕についていても何にもならないし、第一家では犬が待っている。
夕方になり幾分涼しくなってきたので、散歩へ連れて行ってもらえるのを今か今かと楽しみにしているはずだ。
「今日は孝之が家にいるから大丈夫よ」
でも、僕のことが心配で堪らない母は、折角の提案を一番下の弟が在宅していると言う理由で反故にすると、椅子に座って読書を始めてしまった。
仕方なく、僕は少し寝返りを打って母に背を向けると
「……ちょっと寝るね」
そう言って目を閉じた。
一人で色々考えたいのも事実だったけれど、実際、口をきくのが億劫なくらい身体がだるみを訴えていたから。
continue...
by 鷹槻れん
- 2008/06/06 (Fri)
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