05...接点
【Side:崎坂智也】
「…崎坂君、だっけ」
テスト期間も終わり、俺は借りていた本を返す為に図書館に向かった。
その日カウンターにいたのは、やはり何度か見た憶えのあるこの学校の生徒で。けれど口を利いたことは殆どなかった、恐らくは一学年上の彼女に、
「今日は、一人なの?」
不意に声を掛けられて、俺は一瞬閉口した。
返却の為に差し出した本を、彼女が受け取った際のことだ。
浮かせたままだった手を引くことすら僅かに忘れかけたが、遅れて俺は「えぇ、まぁ」と短く告げて小さく頷いた。
(…成田のことか)
そして然程の間もなく、思い至った答えに内心溜息を吐く。
そうすぐに察しがついたのは、それが珍しいことではなかったからだ。
性格はともかく、成田は確かによくモテる。
一度も話したことのない後輩や、バイト先の客なんかから告白されることも割と日常茶飯事で、俺がその仲介役を頼まれたことも幾度と無くあった。
だからと言って、相手をとっかえひっかえと言うこともなく、それどころかここ数年は誰とも付き合っていないらしく、そのことが余計に彼の人気に繋がっているのかもしれない。
まぁ、俺としては、それは要するにどこかに本命がいると言うことではないかと思うんだが……。
ともかく、そんな彼とそこそこ一緒にいることが多い俺は、こうして成田についての探りを入れられることも少なくなかった。
「……こっちは代理の返却です」
彼女の視線は真っ直ぐで、俺の言葉を待っているのは明らかだった。
けれど俺は、彼女が期待するような返答はせず、鞄から取り出したもう一冊の本を目の前へと差し出した。
「…あ、ごめんなさい」
するとはっとしたように、彼女は微かに頬を染め、慌ててそれを受け取った。
逸らされた視線はすぐに手元へと落とされ、手馴れているはずの作業が酷くぎこちなく見える。
俺は小さく吐息すると、
「…残りの本、明日返すよう言っておきます」
それだけを残して、踵を返した。
(暑……)
図書館の扉を潜ると、相変わらずの気温に苛立ちさえ覚える。
思わず玄関の影の下で足を止め、嫌味なほどに快晴の空を見上げた。
しっかり空調が効いていた場所から出てきた所為で、そう感じるのも余計だとわかってはいた。
わかってはいたが、
(…コーヒーでも飲んで帰るか)
俺は何気なく巡らせた視線の先に、構内唯一のカフェを目に留めると、ゆっくりそちらへと向かって歩き出した。この暑さの中、真っ直ぐ帰路を辿る気にもなれず。
幸いなことに、今日はバイトも入っていないから、時間だけはたっぷりあるし――。
(成田はバイトだったな……)
カフェの扉に手をかけながら、ふと先刻の彼女のことを思い出す。
俺と成田は、大して珍しくもない居酒屋のチェーン店でバイトをしている。
互いに一人暮らしの下宿先も、偶然ながら同じアパートだった。
まぁそれは元々学校が斡旋していた物件なので、そこまで驚くようなことではないけれど。
開いた扉を抜けると、カウンターで食器を拭いていた馴染みの店員――水沢菜摘さん――と目が合った。
柔らかく微笑む年上の彼女は、このカフェを一人で任されていて、その人当たりの良さも手伝ってか、ここに来る生徒の多くにとっては友達であり、また場合によっては姉のような、ともすれば母親のような存在でもある人だ。年齢は確か、そろそろ三十も半ば――と、言っていたのは成田だっただろうか。
俺は直接そう話をする方ではなかったが、それならそれでと、距離感をとるのも上手く、だからこそ俺もこうしてたまに足を運んでいる。
ただ単に、彼女の入れるコーヒーが美味しいという理由もあるけれど。
食堂の二階に位置する店は、あまり広いとは言えず、敢えて一望するまでもなく、店内の様子は容易に知れる。
(……あれ)
カウンター席は窓際に数席だけ設けられていて、そこに一人だけ先客がいるのはわかっていたが、一度目に視界に入れた際には何も思わなかった。
けれど適当なテーブル席に腰を下ろし、溜息と共に視線を天板へと落としてから、
(…あの人……)
遅れて再度顔を上げる。
その後姿には、確かに見覚えがある気がして。
壁際の椅子に座った俺に対し、彼が座っている席はその前方に当たる。
要するに、彼が振り返りでもしない限り、その顔を確認することはできない状況だ。
俺はポケットに突っ込んであった煙草とライターをテーブルの上に取り出しながら、何となく彼の背中から目が離せなくなっていた。
それでも、癖のように抜き出した一本を口に咥え、半ば無意識にでもその先に火を灯そうとする。
「崎坂くーん、今日もアイスコーヒーでいいのー?」
が、そこにカウンターから控えめに声がかかり、俺ははっとして彼女へと視線を戻した。
「――あ、あぁ、それでお願いします」
何故だか一瞬気が焦り、咥えていた煙草を外して返す声は、自分にしかわからない程度ながらも、確かに上擦っていた。
彼女が「了解しました」と戯れに片手を上げたのを見てから、取り繕うように改めて煙草を咥え直す。
視線も目の前の天板へと落とし、今度こそ手の中のライターを構えて火を点けた。
細い紫煙が天井へと立ち昇るのを視界の端に、テーブル端に避けてあったアルミの灰皿を自分の方へと引き寄せ、漸くひと心地。
椅子の背凭れへと身体を預け、何気なく双眸を伏せると、ややしてバサリと前方で音がした。
「…あっ」
次いで短い声が耳に届き、俺は思わず目を開ける。
音がした先――窓際を見遣ると、高めのスツールから足を下ろし、床に落ちた本を拾い上げる彼の姿が目に入った。
その横顔に、
「…、……」
やっぱり。と、思わず声に出して言いそうになり、俺は慌てて口を噤む。
見覚えがあるのは当然だった。ただ同じ学校の学生だからと言うだけでなく、彼は先刻俺が足を運んだばかりの図書館の司書で、そして過日に救急車で病院まで付き添ったことのある相手だった。
(最近は体調良さそうだな…)
数週間前、図書館で顔を見た時は、あまり顔色がよくなかったような気がする。
だけどここ数日は、割と元気そうにも見えて、余計な世話だとは思いながらも俺は内心ほっとしていた。
「――…、…」
そのまま眺めていると彼に気付かれてしまいそうで、何となく俺はまた努めて彼から視線を外す。
が、その足元に一本のシャーペンが転がってきて、靴の先にこつ、とぶつかった。
continue...
by 雪ひろと
- 2008/03/13 (Thu)
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